律令国家において、土地や人はすべて朝廷・国が所有とする公地公民が原則であった。しかし従来の田荘・部曲の領有を豪族へ認めた事例が散見され、所有禁止の実効性は少なく、各地に浸透しなかったとも考えられ、あくまで理念上掲げられた側面が多いとされる。朝廷・国が農地開拓を進める為に当初は、口分田(くぶんでん)」と言う形で農民に一代限りの土地を貸し与え税を取る「班田収受法(はんでんじゅうじゅほう)」の仕組みが確立し、大法元年(701)の大宝律令にも継承された。「口分田」は、一代が過ぎると、その土地を返還しなければならないため、墾田意欲も失われる。奈良時代に入ると朝廷は、墾田地を増やし、税収を高めるために土地の開墾者に「三世一身法」の三世代までは私有地として認め、墾田意欲と徴税強化を計った。しかし、「三世一身法」も返還を求められることになり、三世代目では開墾の意欲が失われ徴税も進まなかった。そのために「墾田永年私財法」が出来、私的所有権を認める。しかし、公用の用水路を使用すれば私有権は認められず、私的用水路の造成が必要とした。農地開墾は非常に時間と労力がかかるので、効率の良い鉄製農具が必要とされ、非常に高価であった為に墾田の成功者もいるが失敗者も多く出た。土地を捨て逃げ出す農民も多くなり、成功者は地方で豪族となり武装して農地を自営する武士に発展していく。
平安期に入り、「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」は、墾田地は墾田者の私有地になる法律であった。この法律により、律令制度における公地公民制度は崩壊したと考えられ、荘園発生に繋がる法令であった。経済力のある公卿・軍事貴族や地方豪族が、私有地として逃げ出した農民を雇い入れ、墾田地を拡大してゆく。十世紀に入ると戸籍・班田収授による租税制度が崩壊し国司が租税納入を請け負う国司請負へと移行し、地方行政における国司の影響と役割が強化された。その後、朝廷で貴族が台頭し、政治の主導権を握ると、大きな寺社等に与えられていた税を払わなくても良い「不輸の権(ふゆのけん)」を貴族の土地にも当てはめた。また、地方では、朝廷によって選ばれた下級貴族が国司となり税の徴収などが行われていたが、貴族の持つ土地には国司が介入できない「不入の権(ふにゅう)」を得る。国司はその分を豪族に徴税を高め、地方豪族は国司と対立して自分の土地は自分たちで守ると言う武士団を出現させる。国司や役人との反発・不満の争いが頻発した。
侍の語源は多くあるが、主に「さぶら・う(さぶらふ)」からきている。身分の高い人や敬うべき人の傍に控える。御使いする。また、宮中など尊い場所にいる。侗候(しこう)する、従う等が挙げられる。わが国の、古代から中世においての貴族や諸大夫に仕える位階六位までの下級技能官人層(侍品:さむらいほん)の呼称であった。また、そこから発生した侍の別名が武士である。位階六位までと言う事は、本来、朝廷では庶民を指している。その武士の語源は、「やまぶし(山伏)」や「のぶし(野伏)」の上略と考えられ武士は当て字とされる。武士は奈良時代では「もののふ」と呼ばれ、朝廷に仕える「文武百官」の事であった。十世紀かの平安期から十九世紀の江戸期まで戦闘員、戦闘を家業とし家系を持つ者を指す。平安期において侍(さぶらうもの)の呼称が発生し、やがて、「もののふ」が武士、武者とも呼ばれ「勇散な人」「つわもの(兵)」といった意味で用いられる。同義語として武者があり、「武士」に比べ戦闘員的もしくは修飾的意味合いが強くする場合に用いられた。そして侍・武士は、貴族や朝廷の警護を担当する軍事貴族や京武者等が出現する。また、臣籍降下した桓武平氏、嵯峨源氏が各地域の在庁長官とし任官したことで、その子孫たちがその地に留まり、その地を治める介・掾・目(国司は四年任期)等を世襲した。また、地方豪族が藤原姓を名乗り、そして桓武平氏、嵯峨源氏の庶流の両者が、地方の開拓・開墾を担う者が武士へと移行していく。所領を持った地方豪族間や同族でも所領争いが頻発し、戦闘員や戦闘を家業とし家系を持つ武士も現れた。
地方豪族・武士団・武士達が開拓・開墾した農地は、荘園制度の確立により租税が高く、それぞれの農地領主(貴族・寺社)に寄進して管理権を得て懸命に守った。そのさまを、一所懸命と言い、一所である農地を、命を懸けて守ると言う事である。十一・二世紀に使われていた言葉が今も使われている事に日本人の気質や文化形成に用いられた事によると考える。地方豪族の武士にとっては、土地がすべてであった。土地に執着して、少しでも権威にあずかろうとしたものである。そして地方豪族は名目上、貴族に土地を献上する寄進地系荘園にすることで、少しの税を貴族に納め、荘官としてその土地を管理する方法を考え出した。しかし、それは地方豪族にとってもろ刃の剣であり、寄進した荘園領主が法的な土地の所有者になった事で、気分次第で荘官としての地位を解任させられ、管理権も失う事もあった。領家の貴族の顔色を窺う為に献上品の提供なども行われた。
先述したように武士・侍の言葉の語源は「さぶらう者」とされ、意味は貴族の脇に控えて仕える者と言われ、多分な忖度や饗応が行われた。特に坂東(関東)は、そのような弱い立場の武士の巣窟で不安と不満が混在していた。平安期の時代、武士が個人の領地の安泰を考えるが、親、兄弟であれども隙があれば乗っ取る、まして他人の所領であるならば、なおさらである。平将門の天慶の乱等がそうである。また、相続等の法令もなく、力の強いものがすべてを奪うのがこの時代の慣わしであった。こういった背景から東国の武士達は、婚姻関係を強め相互信頼と相互援助の関係を強めていく。しかし、朝廷に対する訴状等においは、弱い立場に置かれていた。武士を束ね、訴状の決済、朝廷および貴族に対等に話が出来る人物を必要としていた。 ―続く