治承四年(1180)、後白河法皇の第三皇子の以仁王が平家追討を愛ずる令旨を受け、源頼朝が同年八月十七日に挙兵した。平治の乱で父源義朝が敗れ、十四歳で伊豆に配流となった頼朝は、既に三十三歳になっていた。その流罪人である頼朝が何故挙兵できたのか、何故坂東武士が集まったのか、平家を滅亡できたのか、そして何故鎌倉幕府を創立したのか。それらには、それまでの日本の政治体制を見なければ理解し難い事もある。まず、律令体制から見て行く必要がある。
(写真:良法隆寺)
日本では、中国の律令制度を基に、飛鳥時代の七世紀後半に律令制の国家制度・統治制度を構築する。この律令制度は、時代により変遷していくが十世紀ころまで続いた。その目的は中央集権国家の実現により強固な国家体制の構築である。七世紀初頭、その体制は大化元年年(645)孝徳天皇、中大兄皇子らの難波宮で行った大化の改新により中国の律令制の影響を受けた五つの施策が示された。
一、 豪族らの私有地の廃止と人民の所有の廃止。
二、 朝廷による中央統一的な地方統治制度の創設。
三、 戸籍・計帳(公文書及び台帳)、班田授受法の制定。
四、 租税制度の再編成。
五、 朝廷、中央の統率による大規模軍団兵士制の創設。
以上の五項目であったとされる。その背景として白村江の戦い(663)の大敗により中国・唐との対峙の危機意識が強固な国家体制の構築に拍車をかけた。国民皆兵制による大規模国家軍事力の構築、新羅・渤海等の他国への宗主の位置付けを目指したと考えられる。現在では大化の改新により、公地公民制が確立したわけではなく、王土王民の理念の宣言があったのみとされ、また改新時には公地公民制度は構築されなかったとする説が有力になりつつある。
(写真:大阪四天王寺)
日本の律令体制の構築にあたり中国の全面的官僚制は採用されず、伝統的な氏族制も重んじ、併用する事で二元国家体制として独自性を持って進められた。郡司は中央官僚ではなく古来の地方豪族が任用され国郡里制を用い伝統的村落の地方行政が行われた。このため、天皇・朝廷への宗教的場祭祀による捧げ物のミツキによる貢納を国家による地方支配の根幹とした。中国の租税制度である租庸調(そようちょう)とは違い、地方行政機関の評定制定と民衆を掌握し戸籍の作成、班田収授法で農地の調査、徴税労役を課すことが重視されている。
八世紀ごろには、律令体制が構築され、最盛期を迎える。これらの独自性が日本史上において観念上、朝廷が当地の頂点に立つことが確立し、公地公民制による生産手段、統治権、軍事権の正当性の根拠となる。そして官僚優越および軍事統率権は朝廷が掌握した。
(写真:奈良東大寺大仏殿)
中国では皇帝が心法の制定者であり最終的権威者であるため律令を超越できた。名例律十八条「非常の際には律令に従わず裁断できる」とある。日本にも養老律令・名例律、考課令官人犯罪上に道規定があるが、日本では律令運用の中心が、太政官・議政官等の貴族層にあり、実際に天皇も律令に拘束された。
律令制は、律令法典に基づき社会規範を規定する刑法的な律と社会制度規定する行政法的な令が制定された国家制度であり、九世紀前期にその不足分を補う改正法としての「格」、及び律令と格の施行細則としての性格を持つ「式」が一つの法体系を示し、律令法典を構成している。また中央と地方の情報伝達を早急に行うための交通制度である駅伝制も律令制を構成する制度として採用された。
(写真:ウィキペディアより引用 小倉百人一首天智天皇、延暦寺蔵桓武天皇像)
しかし平安期に入ると現実的に日本の経済制度において、貨幣経済の浸透が進まず放置され、また必要以上の国家軍事力の維持は負担が大きく、また財政的、人的な負担、浪費とみなされ修正されていった。桓武天皇は律令制の理念を守りながら、こうした制度を廃止または簡素化し、実行的な制度へ置換する大規模改革を行った。長岡京・平安京遷都や蝦夷征討を行うが、この平安期において藤原北家が朝廷で独占的地位をしめ王朝国家として貴族社会が形成されるため、荘園制度の確立や荘園を支配する貴族などの領家による有利な免田制度を作り、より一層の庄園支配を強化していった。これらの事から桓武天皇の御代で律令制は終焉したとする論者も存在する。そして、軍団兵士制の廃止は、治安維持を悪化させ、軍事・警察組織として軍事貴族化した藤原氏や臣籍降下した桓武平氏、清和源氏などの検非違使が置かれるようになった。京では、公卿・貴族に仕え警護する武士たちが現れる。地方では、地方豪族や有力な農民が自衛のために武装し武士へと成長していった例も考えられる。この治安の悪化は戦国時代までの七世紀の間、混乱を招く結果となった。 ―続く