今年令和四年(2022)、鎌倉の梅雨入りは六月六日であった。昨年は宣言を出すのが遅れたようで六月十四日に出されている。前年は、全体的に気温は高く二十七度前後と蒸し暑く、雨が少なく曇天の天気が続いた。七月一日は、落雷を伴う豪雨があったが、被害がなかったことは幸いであった。梅雨明けは七月十六日で梅雨の期間としては短かったが、梅雨が明けると蒸し暑さから酷暑に替わった梅雨であったと思われる。
今年の鎌倉の梅雨、南関東地方は梅雨寒の日が多く、十九度という四月上旬の気温にまで下がった日があった。関東地方で、雹がふり落雷が発生するという日もあったが、少なくとも鎌倉では昨年に比べると比較的安定した梅雨である。梅雨明けは平年七月十九日頃で、昨年は十六日であった。今年は、何時頃に開けるのか楽しみでもあるが、その後の酷暑の不安も残る。
この時期には、一日の寒暖差も大きく、体調を崩すこともあり、気を付ける時期でもある。このため、神社では夏の大祓の儀式が行われ、鎌倉では鶴岡八幡宮が有名である。六月三十日、鶴岡八幡宮・鎌倉宮で大祓式が行われる。半年の罪や汚れを祓い清め無病息災を祈念する。鶴岡八幡宮では十一時、十三時、十五時、十七時に行われ、十七時の大祓いが主体である。
大祓の成立は、天智天皇朝説、天武天皇朝説があるがいずれも原典になる文章がそれ以前に存在したとされる。神道の祝詞(のりと)の一つ大祓詞(おおはらえのことば)があり、神道の観念による「罪」であり、仏教的観念や現在の法的犯罪とは意味合いが異なる「罪・穢れ」を祓うために中臣氏が京の朱雀門で奏上した事から「中臣祭文(なかとみさいもん)」「中臣祓詞(なかとみはらえことば)」があり、略して「中臣祓」とも呼ばれる。中臣祓には六月と十二月の異なる文章があったが六月の文章のみが残され『延喜式』には「六月晦大祓」として記載され今日それを基にした祝詞が用いられている。
「高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以ちて 八百萬神等を 神集へに 集え賜ひ 神議りに議り賜ひて…」
中世に入り陰陽道や密教と結びつき、陰陽道の呪言や仏教的経典のような念昌により功徳が得られるとされた。神道では、聖典や経典は残されていないが、この様に祝詞が残されていることも興味深い。
夏の大祓では「夏越の大祓」として、茅の輪くぐりがあり、古来から「身についてしまった厄を祓うもの」として行われて来た。由来としては諸説あるが、蘇民将来(そみんしょうらい)という人物の神話が由来するとされている。備後で暮らしていた蘇民将来は、素戔嗚尊が旅の途中で宿を求め、貧しいながらも喜んでもてなした。その恩義として素戔嗚尊が「疫病を逃れるために、茅の輪を腰に付けなさい」との教えを受け、疫病から逃れた」とする伝承から茅の輪をくぐり無病息災の行事へと変化していったとされる。
茅の輪くぐりの作法として、左、右、左と回りながら唱え言葉「祓へ給ひ 清め給へ 守り給ひ 幸へ(さいわへ)たまへ」を唱えながら回る。神社によっては、祝詞や和歌を唱えたりもする。
一週目、「水無月の 名護市の祓 する人は ちとせの命 のぶというなり」
二週目、「思う事 皆つきねととて 麻の葉を きりにきりても 祓へつるかな」
三州目、「みやがわの 清き流れに禊せば 祈れることの 叶わぬはなし」
と一週目の和歌が有名で、この和歌のみを唱える神社もある。また、自身の好む和歌や功徳のある和歌を唱える神社もあり、京都では、自身に功徳のある和歌を唱えながらくぐる人が多い。京都人の文化的教養を見る一面であるが、大阪の人間は、天神祭りに夏の厄払いを集約しているように見える。鎌倉の鶴岡八幡宮では茅の輪をくぐるだけと簡略化されている。以前はそうではなく左・右・左と八の字を描いたと記憶するが、コロナ感染症のために人混みを避ける事から簡略化したのかもしれない。各地それぞれ神社によって作法が違う。
また、人の形に切り抜いた紙の形代(かたしろ)に氏名、年齢を書き込み、自身の体に触れ撫でて、息を吹きかけ形代に自身の厄や穢れを移して形代を身代わりとして清めてもらう神事もある。
十二月の大祓でもこのような神事が成される所も在り、基本的には同じであるが所作・作法が違うと言うことだ。
これからも梅雨が続き、紫陽花の花が綺麗な時期であるが、毎年この時期に大きな災害が起こる傾向にある。また、急な猛暑になる日もあり健康管理に注意していただきたいと思う。