鎌倉散策 平重衡 三十二、終章 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 平重盛は、平清盛の五男であり、継室の時子が三番目に生んだ子である。いつの世にも嫡子は取り上げられるが、それ以外の兄弟に対しての扱い度は違う。『平家物語』において、清盛の弟・経盛・教盛・頼盛・忠度の記述は少ない。本来、嫡男ではない重衡が注目される存在ではないが、清盛の子で、嫡子で、早世した平重盛、その子・維盛とほぼ同じ程度、多くの項が割かれている。『平家物語』で重衡を記したものは、「南都焼討」「生捕」「内裏女房左衛門佐」「八島院宣と請文」「戒文」「海道下」「千手前」「被斬」と在る。

 

 重衡は、「南都焼討」と「生捕」と言う事からも多く記されるのは当然であるかもしれない。大罪の責を被る重衡を悪人として描くのは容易であるが、記述は重衡の人間性によるものが大きく描かれている。これは、「内裏女房左衛門佐」、「被斬」の妻・輔子(大納言佐局)や同時代を生きた人々の重衡に対する伝承であったと考えられる。『平家物語』では、重衡と維盛は叔父と甥の関係でありるが、同年代の二人を対比的に描いたとされる。清盛の子として高い地位にありながら、内裏の女性たちにも気さくに声をかけ、多くの人に優しく、愛され、重衡の人となりを描かれた。また、神秘的な美しさを持ちながら家族を愛する一門の棟梁の子であった維盛。重衡は、出家も許されず、南都焼き討ちの責を受け、この世に未練を残しながら、阿弥陀如来の慈悲に頼り斬首された。維盛は、一の子であっあ自身の責と家族への愛情の狭間で迷い、阿弥陀如来の慈悲にすがり出家をして入水した。二人とも来世の極楽浄土を求め阿弥陀仏を念じている。源頼朝が鎌倉に下向した重衡に一族の冥福を祈るよう与えた像が阿弥陀仏像とされ、重衡も厚く信仰したという。

 

 貴族の世から武士の世に転換するこの時代に仏教においても転換が見られる。法然上人の十戒を重衡が受けたと記載されており、従来の朝廷や貴族のための仏教が民衆への仏教と変遷していく過程であった。そして、法然が唱えた専修念仏が鎌倉新仏教の一つとして浄土宗が成立し、他の浄土真宗、時宗に影響を与えた事は事実である。

 平重衡の墓は高野山と、墓・石柱として京都市伏見区醍醐外山街道町の公園内にある。供養塔は、平重衡首洗池が京都府木津川市木津宮の安福寺に建てられ。また平重衡首洗池が近隣にあり、土地の人が重衡の供養に植えた木が実らず、不成柿(浮上柿)と呼ばれる柿木がある。首塚として埼玉県本庄市児玉町蛭川に駒形神社脇の墓地に置かれている。一の谷で生け捕りにしたのが梶原景季と庄高家の子定重とされ定家は児玉党の蛭河太郎を称している。本庄市は児玉党の本拠であり、庄定家は、平重衡の遺髪を持ち帰り供養されたとしており、重衡は敵方においても敬意を抱かせる人物であったと思う。

 『平家物語』の前半は、平家の悪行。中半は治承寿永の戦乱。後半は滅びゆく平家一門の「あはれ」を仏教の唱導により語られ、滅びゆく人々を見届け、祈る事の大切さを物語っている。『平家物語』は、およそ八百年前の物語であるが、現代においても、その「あはれ」は今の人々に感銘を与えるに集大成であり、『平家物語』を単に戦記物語として認識する事は、あまりにも不十分で、仏教思想に基づく唱導により平家一門を描いた伝記物語として認識したい。 ―了