『平家物語』で記された平重衡を追ってきたが、慈円の『愚管抄』第五巻に「重衡斬罪」が記されている。非常に興味深い内容が記されており、慈円 大隅和夫訳、『愚管抄』禅現代語訳を引用させていただく。
「重衡斬罪」
「さて、九朗(義経)は大夫尉に昇進され、生捕にした宗盛公や重衡などを引き連れて五月七日に頼朝のもとへ下って行った。宗盛と重衡は二人ともまた京都に送られ、内大臣宗盛は六月二十三日(二十一日の誤り)に勢田の辺りで首を斬られた。
重衡は、是こそ東大寺の大仏を焼いた時の僧対象であるから、こうして仏の御敵を討ち取り申し上げた証拠にしようというわけで、わざわざ泉の木津(京都府木津川市)の辺で斬り、その首は奈良坂にさらししものとして掛けられたのであった。前内大臣(宗盛)の首が検非違使庁へ運ばれていくとき、見物の人々と共に後白河法皇もそれをご覧になった。重衡の最後については、(源)頼政入道の子頼兼というものを護送の使者として上らせたが、東大寺に連れて行く途中で斬ったのであった。大津から醍醐を通り、櫃河(ひつかわ)へ出て、宇治橋を渡って奈良に行ったのである。ところで、重衡は邦綱の末娘で大納言典侍(ないしのすけ:輔子)という女房を妻としていた。この女房は高倉天皇にお仕えし、安徳天皇の御乳母でもあったが、この時、姉の大夫三位(成子:重子)が日野(京都市伏見区)と醍醐の中間あたりに家を作って住んでいたところへ身を寄せていた。重衡は護送されていく途中で妻のいるところを通りがかったのを喜び乗物から降り、今すぐにでも死ぬ身を歎き、泣く泣く妻の差し出した小袖に着替えて身なりを正したりして時を過ごした。頼兼も着替えることを許したのである。だいたい悪事をさかんに行っているときには、それに対して憎悪の念を燃やすものであるけれども、またそれがこういう場面になってしまうと聞く人は悲しみの涙に沈むものである。
(写真:奈良 般若寺)
季通入道の子に範源法印という僧があった。範源は天台宗のすぐれた学者で、宗学の論議を行うときの出題者であったが、昔吉野山に通っていた時、人相を見て人の運命を判断するのに巧みであると評判されていた。かれは吉野から都に上がってくる途中、クヌギの生えている野原で重衡に出会った。「これはいったいどうなさったのですか」と尋ねたところ、罪人としてひかれていく途中でやがて殺されるであろうという。範源はそれまでに今すぐに死ぬであろうという人の人相を見たことが無かったから見ておこうと思って輿から降りた。そのあたりには武士たちが食事のために馬を休めたりしていたが、少し重衡に近寄ってよく見たのに、全く死相は見えない。これはどうした事かと、重衡の周りをまわりながら見たが、遂に死相を見出す事は出来ずじまいになった。本当に不思議な事であったと語るのを聞いたことがある。人相というものはいったいどういうものなのであろうか。頼朝が重衡に対してこのような処置をとったことを世間の人々は舌をならしてうらめしく思ったのであった。頼兼は頼政の後を継いで内裏の警護の任に当たった。しかし、それも永くはなく、思うようになれないで死んだ。その後はまたその子頼茂というものが次いで内裏に出仕することになる。」
(写真:奈良 東大寺)
『愚管抄』は、摂政関白・藤原忠通の子で、四度に及び天台座主になった。同母兄に『玉葉』の著者・九条兼実がいる。『愚管抄』は、貴族から武士の時代の転換を捉え末法思想と「道理」の理念に基づき、記された歴史書と評価される。慈円の客観的な論理と共に極端な記載も見られることから、史論書として捉えることが出来ると思う。慈円は朝廷側の一員でありながら、源頼朝の政治を道理の適った政治と評価しており、西行や藤原定家との親交で歌人としても評価された。法然と親交がありながら、専修念仏を批判し、配流後の赦免された法然の世話を見るなど、客観的に論じる中で、人間的な行動を行う僧であったと思う。
(写真:奈良 興福寺)
さて、『愚管抄』において、「南都焼き討ち」の責を負う平重衡の記載は多くなるのは当然である。重衡を評したこの記載において、僧侶として「南都焼き討ち」に対する評価は罪悪としてとらえた。しかし、重衡が日野で妻の輔子との対面について「だいたい悪事をさかんに行っているときには、それに対して憎悪の念を燃やすものであるけれども、またそれがこういう場面になってしまうと聞く人は悲しみの涙に沈むものである」と記している。また、範源法印は、「それまでに今すぐに死ぬであろうという人の人相を見たことが無かったから見ておこうと思って輿から降りた。そのあたりには武士たちが食事のために馬を休めたりしていたが、少し重衡に近寄ってよって見たのに、全く死相は見えない。これはどうした事かと、重衡の周りをまわりながら見たが、遂に死相を見出す事は出来ずじまいになった。」と記した。そして、「頼朝が重衡に対してこのような処置をとったことを世間の人々は舌をならしてうらめしく思ったのであった。」と締めくくっている。これは慈円の道理に基づき記されながら、重衡に対して人として「哀れ」と恩情」を表した表現だと思う。慈円は、重衡の「人となり」を知っていたのか、また人伝いに聞いていたのかはわからないが、兄の平宗盛とは違い、重衡の最期を記している。 ―続き