鎌倉散策 平重衡 三十、「重衡被斬」(二) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『平家物語』巻第十一「重衡被斬」にて日野にいた妻と今生の別れをした。「なまじ逢ったために心に残ることになった対面かと、今は後悔した」重衡であったが、ここに連れ添う者に対しての愛情と悲しみが、今も心に残る描写として伺うことが出来る。『平家物語』巻第十一「重衡被斬」を現代語訳にて続ける。


 

(写真:奈良 興福寺)

 「その後、奈良の大衆(衆徒・僧)が、重衡を受け取って、皆の意見を衆議した。「そもそも、重盛卿は大罪を犯した悪人であるから、三千五刑(古代中国の刑罰五刑の他に三千もの付属刑があり、その刑罰の中にも入らない大罪を意味する)でも裁くことができない、修因感果の道理(しゅういんいんが:自分の行った善悪の業因によって、それに応じた果報を受けるという仏法の道理)の極上をもって対処すべきである。仏敵(仏教の敵、)法敵(仏法の敵)の逆臣であるから、東大寺・興福寺を巡る大垣を引き回してから、のこぎりで首を落とすべき、掘り首(首だけを出し地中に生き埋めて首を斬る刑)にすべき、」と衆議した。老僧たちが申されるのは、「それは僧徒が行う処刑の法として穏当ではない。武士に身柄を引き渡し、粉津(現京都府相楽郡木津町)の辺りで斬らせよ」と言って、武士の下に返された。武士が重衡を受け取って、粉津川(木津川)の河原で、斬ろうとすると、数千人の僧、護衛の武士達や見物の者たちが数知れず集まった。

 

(写真:奈良 東大寺)

 三位中将(平重衡)の召しつかわれた侍(家臣)に、木工右馬允(むくうまのじょう)知時という者がいた。八条女院(八条院。鳥羽天皇の皇女暲子内親王)にも仕えていたが、重衡の最期を見取ろうとして、馬に鞭打って馳せてきた。すでに今、斬られようとしているところに着いて、急いで馬から飛び下り、大勢の人が立ち囲んだ中を、かけ分け、分けて、三位中将(平重衡)のいる側近くまでやって来た。「知時こそは、最期を見届けようと、やって参りました」と申せば、中将(重衡)は、「まことにその志のほど殊勝なことだ。できるなら最後に仏を拝んで斬られようと思うのだが、どうしたものだろう。あまりに罪深く思えるので」と言うと、知時は、「お安い御用でございます」と言って、守護の武士に相談して、そのあたりの里から、仏を一体借りて戻ってきた。幸いにも阿弥陀仏だった。仏を河原の砂の上に据えて、すぐに知時が狩衣の袖の括(くくり:狩衣の裾口に通したひも)を解いて、その紐の一方を仏の手にかけ、紐のもう片方を重衡に持たせた。

 

(写真:奈良 東大寺二月堂)

 中将(重衡)はそれを手に持って、仏に向かって申すには、「伝え聞くことですが、調達(調婆達多、提婆達多とも言い釈迦に反逆し種々の悪行を行ったため、生きながら地獄に落ちた)が三逆(阿羅漢を殺す、仏身より血を出す、和合僧を破る三つの大罪)を作り、八万蔵の聖教(釈尊の教法)を焼き滅ぼしたが、最期は天王如来(来世において天皇如来に生まれ変わるという釈尊の予言)の記別を得ました(授かりを受け)。自分がこの世で作った罪業は、まことに深いと思いますが、有難い仏法の教えにたまたま出会い仏道に逆らった行為が帰って仏道に入る機因となり、悟りを開く手掛かりになりました。

 

 今の世にわたしが逆罪(重い罪)を犯したのは、決してわたし自身が思い立ったことではありません。ただ世の中にその理由があったからなのです。この世に生を受けた者、誰が帝の命令を疎かにできましょうか。生を授かった者、誰が父の命令に背くことはできません、あれと命じられこうせよと命じられれば、辞退することなど思いもよらぬことなのです。理非はすべて仏陀の照覧(それが道理にかなっているか否かは、釈尊がお見通しなさって下さる)するところです。ならば罪報(罪)のむくいをすぐに受けて、運命は今を限りとするのも悔やむことはありません。後悔すること数知れず、悲しんでも悲しみきれない。それでも三宝(仏、法、僧)の境界(善悪の報いによって各人が受ける境遇)は、慈悲(仏、菩薩が人々をあわれみ、苦しみを取り除くこと)を以って心とするが故に、済度(仏が迷い苦しんでいる人々を救って、悟りの境地に導くこと)の良縁(極楽往生ができるよい因縁)は人それぞれであります。「唯縁楽意(りょうえんらくい:ただ縁を信じて心を安らかに)、逆即是順(ぎゃくそくぜじゅん:逆縁もこれすなわち順縁となる)」、この文を肝に銘じます。

 

(写真:奈良 般若寺)

 一たび阿弥陀仏の名号を念ずれば、無量の罪もたちまち消滅する。願わくは逆縁(悪行がかえって仏道に入る機縁となること)を以って順縁(仏道に入る縁となる善事)となるように、この最期の念仏によって、九品托生([九品]は[九品浄土]の略で、[西方浄土]で生きながらえること)を遂げさせよ」と大声を播上げて念仏を十返唱えながら、首を伸ばして討たれた。これまでの日頃の悪行はいうまでもないことだが、この有様を見て、数千人の大衆(衆徒、僧)も、守護の武士たちも、皆涙を流した。重衡の首は般若寺(現奈良市般若寺町)の大鳥居の前に、釘付けにして掛けられた。これは去る治承の合戦(南都焼き討ち)の時、ここに重衡が討ち入って、伽藍(寺院の建物)を焼き滅ぼしたからだという。

 

(写真:ウィキペディアより引用 京都 法界寺 阿弥陀如来坐像)

 北の方大納言佐殿は重衡が斬られたことを聞いて、「たとえ首ははねられるとも、骸はどこかに捨て置かれていることでしょう。骸を持ち帰り孝養(供養)しなくてはと申して、輿を遣わした。思った通り骸は河原に捨て置かれていた。重衡の骸を輿に乗せて、日野に担いで帰り、これを待ち受けて御覧になった北の方の心のうちは、察するほど「あはれ」であった。昨日まで立派な様子でおありだったけれど、暑い頃なので、早くも変わり果てた姿になってしまわれていた。そのままというわけにはいかないので、その辺りにある法界寺(現京都市伏見区日野にある寺院)に入れて、然るべき僧たち大勢にお願いして供養を受けて頂いた。

 重衡の首は、大仏(東大寺)の聖である、俊乗房(重源)に願い出て、俊乗房が南都の大衆(衆徒、僧)にお願いしたので、すぐに日野に送られてきた。首も骸も煙(火葬)にして、遺骨は高野山に送り、墓を日野に作られた(日野の法界寺近くに重衡の供養塔が伝えられている)。北の方はやがて様を変えて仏門に入り、濃い黒染めの僧衣に替えてやつれ果て、重衡の後世菩提を弔われたのが哀れであった。 ―続く