『平家物語』巻第十一「重衡被斬」現代訳。
「その後、本三位中将重衡卿(平重衡)は、狩野介宗茂(源頼朝の家臣)に預けられて、去年(元暦元年:1184)より伊豆国にいたが、奈良の大衆(衆徒:僧)が再三に引き渡しを要請したので、「ならば引き渡そう」と言って、源三位入道頼政の孫、伊豆蔵人大夫頼兼(源頼兼)に命じて、遂に奈良へ連れていくことになった。今回は都の中へは入らず、大津(現滋賀県大津市)より山科(現京都市山科区)を通り、醍醐路(現滋賀県大津市、逢坂関、山科、醍醐、京都伏見に繋がる道)を通ったので、日野(現京都市伏見区日野)は近くであった。重衡の北の方(正室)は、鳥飼中納言惟実(藤原惟実)の娘で、五条大納言国綱(藤原国綱)の養女(鳥飼中納言の娘は誤りで邦綱の実子とされる)、先帝(安徳天皇)の乳母、大納言佐殿(すけどの:邦綱の第三助で名は輔子)と呼ばれている。三位中将(平重衡)が摂津国一の谷で、生け捕りにされた後は、安徳天皇の供に付き従ったが、壇の浦で海に沈んだが、荒々しい粗暴な源氏の兵に捕らわれて、故郷に帰り、姉の大夫三位(藤原成子:六条天皇の乳母)の居に寄せ、日野という所におられた。三位中将(平重衡)の露の命、草葉の先にたまった露が今にも落ちそうになりながらもかろうじて残っているとお聞きになったので、夢の中で何度も見たが、今一度、姿を見たく、お会いしたいと思うが、それもかなわぬ事と、泣くより他に慰めもなく、日々を暮らしていた。
(写真:京都 醍醐寺)
三位中将(平重衡)が、警固の武士たちに言うには、「このたびは、事に触れて情け深く心遣いをしていただいた事が有難く嬉しく思います。同じくは、最期にもう一度、御恩を受けたいと思う事があります。わたしには一人の子もおらず、この世に思い残すことはありません。ただ多年連れ添ってきた妻が日野(現京都市伏見区日野)という所にいると聞きます。もう一度会って、後生(後世、死後)のことを言い残しておきたいのです」と片時(かたとき:少しの時間)の時間を請われた。武士たちも岩や木のように感情を持たない者ではないので、皆涙を流して、「女房ならば、何の差し支えがありましょう。急いで参りましょう」と言って許した。三位中将(平重衡)は、とても喜び、「ここには大納言佐の局はこちらにおいでになるでしょうか。本三位中将殿(平重衡)が、只今奈良に向かい通られようとされていますが、室内に入らず立ったままお目にかかりたいと申しておられます」と、人を通して知らせると、北の方(正室)がそれをお聞きになり、「どこにいますか、どこですか」と言って、走り出て見ると、藍摺り(あいずり:藍を用いて模様を青く摺りだした)の直垂に、折烏帽子をかぶった男が、痩せて顔色が黒ずんでいたが、縁に寄りかかっていたのが、その人(平重衡)であった。
大納言佐殿は御簾の際近くに寄って「どうして、夢か、うつつか。こちらにお入りください」。
北の方は御簾の際近くまで出て、「いったいどういうことでしょう、夢でしょうか、それとも現実のこと。ともかくもこちらにお入りなさいませ」と言う声を、(御簾を隔ててのことで、大納言佐は重衡の姿を見ることが出来たが、重衡の方からは北の方の姿が見えず、声を)聞くだけでも、重衡はただ先に涙が流れてきた。大納言佐殿(北の方)も、目もくらみ心は動揺して、しばらく何も言う事は出来なかった。三位中将(平重衡)は御簾を上げ泣きながら申すには、「去年の春に摂津の国一の谷で、斬られるところを、(奈良を焼いた)あまりにも重い罪の報いなのか、生きて捕らわれて、京・鎌倉に恥を晒すのみならず、最期は奈良の大衆([僧])に渡されて、斬られることになり、やって来ました。何としても今一度、姿を見てもらうために、また会いたいと思っていたで。もうこの世に露ほども思い残すことはない。出家して髪を形見に渡そうとも思ったが、このような身になってしまったので、それもできず」と言って、額の髪を掻き分けて、口が届くところを少し喰いちぎって、「これを形見にせよ」と言って与えると、北の方は、これまで会えずにその安否を気遣っていた時よりも、会うことが出来た今は一層悲しみが増したように思われた。
「本来なら、越前三位(平通盛)殿の北の方・小宰相殿のように、水の底へ沈むべきであったのでしょうが、たしかにこの世にはおられないとも聞いていなかったので、思いがけなくもう一度変わらぬ姿を見たいと思うがゆえに、辛い思いをしながらも今日まで生き長らえてきました。今日を最後とおっしゃるのは、あまりにも悲しゅうございます。今まで私が生きながらえて来たのは、もしかしたら貴方が許されるかも」と、昔や今のことなどを語り合うにつけても、ただただ尽きることが無い涙を流した。重衡の北の方は、「あまりにも着物が萎れておりますから、お召し替え下さい」と言って、袷(あわせ:裏表を別の布で裁ち合わせて作り、裏の付いた小袖)の小袖(装束の下に着る白絹の下着)に浄衣(神事、祭祀などに着用する白地の狩衣)を添えて出されると、三位中将(平重衡)はこれに着替えて、もともと着ていた装束を、「これも形見にせよ」と言って北の方に差し出した、北の方は、「これも形見にさせていただきますが、かりそめの(ちょっとした)筆の跡を、後の世までの形見にしたいのです」と言って、硯を出された。中将(重衡)は泣きながら一首の歌を書く。
「せきかねて泪のかかるからころも後のかたみにぬぎぞかへぬる」
(悲しみを押さえかねて溢れ出る私の涙がしみ込んだこの唐衣を、後の世の形見として脱ぎ替えて参りましょう)
北の方の返事は、「ぬぎかふころももいまはなにかせんけふをかぎりのかたみとおもえば」
(せっかく脱ぎ替えてくださった衣も、今となっては何の甲斐がありましょう。今日限りの形見だと思いますと悲しさに堪えられません)
(写真:ウィキペディアより引用 平重衡像、平清盛像)
「契り(前世からの宿縁)があれば、後の世に必ず生まれて逢うことができよう。極楽浄土同じ蓮の上に生まれるように(一蓮托生)と祈りなさい。日も暮れようとしている。奈良への道も遠ければ、武士たちもいつまでも待たせるわけにはいかない」と言って、出ていこうとすると、北の方は、中将(平重衡)の袖にすがって、「もう少しだけでございます」と言って引き留めようとした。中将(平重衡)は、「私の心のうちを推し量ってほしい。どんなに別れを惜しんだとしても結局は生き延びることが出来る身ではないのだ。来世で会おう」と言い、出て行かれた。(重衡は)本当にこの世で逢うことが、これで最後と思えば、もう一度戻りたいと思ったが、決心が弱くなってしまうからと、思い切って出て行かれた。北の方は御簾の近くに転び出て、泣き叫ぶ声が、門の外、遠くまで聞こえた。(重衡は)馬を早めることもできず、涙があふれて前も見えず、なまじ逢ったために心に残ることになった対面かと、今は後悔された。大納言佐殿は、すぐさま後を追って走ってでもついていこうと思われたが、それもかなわずと衣を被って臥せられた。」 ―続く