『吾妻鏡』において、平重衡が鎌倉に下向し、元暦元年(1184)三月二十八日に伊豆で頼朝と対面して以来、およそ一年二ヶ月の間,鎌倉で過ごした。五味文彦・本郷和人編現代訳語『吾妻鏡』を引用させていただく、
文治元年六月九日条、「廷尉(源義経)はこのところ酒匂(さかわ)の付近に逗留していたが、今日、前内府(平宗盛)を連れて帰洛した。ニ品(にほん:源頼朝)は橘馬允(うまのじょう:公長)・浅羽庄司(宗信)・宇佐美平治(実政)をはじめとする壮士らを派遣し、因人(宗盛親子)に付けられた。義経が日頃思っていた事は「関東に参れば、平氏討伐の件については、事細かにご質問にあずかるだろう。また、自分の大きな功績が賞せられ、本望がかなえられるであろう」というものであったが、結局は全く違っていた。その上さらに謁見する事もかなわずに、むなしく帰洛することとなった。恨みは既に昔の恨みよりも深くなったという。また、(平)重衡は去年から狩野介宗茂の所にあったが、今、源蔵人大夫大頼兼に(身柄を)渡され、同じ苦境に向けて出発した。(東大寺の)衆徒の申請に従い、南都(奈良)へ送られるという。
同二十一日条、「卯の刻、廷尉(源義経)は近江国篠原宿(滋賀県野洲市笹原付近)に到着し、橘馬允公長に命じて前内府(平宗盛)を誅殺させた。次に野路口(滋賀県草津市野路町付近)に至って、堀弥太郎景光に命じて全金吾清宗(平清宗:平の宗盛の嫡子))の首をさらされた。この間、大原の本性上人(ほんじょう上人:湛豪)が(宗盛・清宗)親子の善知識(ぜんちしき:人々を仏の道に導く僧)として親子の処刑の場に出かけられた。両人ともに上人の教下に帰して、たちまちにその怨念を翻(ひるがえ)し、欣求浄土(ごんぐんじょうど:浄土に往生する事を欣求する)の志が生じたという。また(平)重衡卿は、今日、京都に召し入れられたという。…」
同二十二日条、「(平)重盛卿は東大寺へ送られた。衆徒の申請によるものである。」
同二十三日条、「前内大臣(平宗盛)及び右衛門督(平)清宗の首を源廷尉(義経)の家人らが六条河原に持って行った。検非違使大夫尉(平)知康、六位尉(中原)章貞・(藤原)信盛・(大江)公朝、志(さかん、中原)明基、府生(ふしょう、大江)経広・(紀)兼康らが六条河原で首を受け取り、獄門の前の樹に懸けた。この事については、(蔵人)頭右大弁(藤原)光雅朝臣が参陣して、検非違使別当(藤原家道)に命じ、別当が頭弁(光雅)に命じ、頭弁は大夫史(小槻:おづき)隆職に伝達した。隆職は延尉の知康に伝えたという。今日、前三位中将(平)重衡が南都(奈良)で斬首されたという。(東大寺の)伽藍の火災の首謀者であったため、衆徒が強く申し出したからであると言う。)
七月二日条、「橘右馬允(公長)・浅羽庄司(宗信)らが今日に帰ってきた。先月二十一日に前内府(平宗盛)親子を(斬首し)さらし首にしたことや、同二十三日にその首を獄門に遣わし、(平)重衡を南都(奈良)に引き渡した事などを、詳しく申したという。」。
『吾妻鏡』に記載されている内容はこの通りであり、平重衡に関する記載はここで終わる。平安後期から鎌倉中期の歴史書であり、史記の様相を示す『吾妻鏡』であるため、年表方式的な記載によるものは仕方がない。しかし、『平家物語』では、物語として、帰京から南都までの重衡に関する記載が残されている。物語であるため、その信憑性は定かではないが、鎌倉中後期に成立した『平家物語』が、平家の悪行とは別に、平家の門人の「あわれ」を仏教の唱導により書かれたことで、その人物の人となりを導き出されている。そして、人々は、約八百年前の物語を今も読み続けられていることに感銘を覚える。 ―続く