『平家物語』巻第十「維盛入水」現代語訳。「熊野三山(本宮・新宮・那智の三所権現)での参詣を何事もなく終えられ、浜野宮(九十九王子の一)という王子社の御前(宮王子)から、一艘の舟に乗って、遥かに広がる蒼い海へ漕ぎ出された。はるか沖に山成島(勝浦対岸狼煙山の東方海上の大小十五ある島の最大の島)という島がある。そこへ舟を漕ぎ寄せ、岸にあがり、大きな松の木を削って、中将の名籍を書きつけられた。「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海。親父内大臣左大将重盛公、法名浄蓮(じょうれん)、三位中将維盛、法名浄円(じょうえん)、生年二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す」と書きつけて、又沖へと漕ぎ出られる。入水することはかねて覚悟していた事ではあるが、いよいよ最後の時になると、心細く、悲しくないという事はない。
(写真:ウィキペディアより引用 紀の松島)
時は三月二十八日の事なので、海路には遥か遠くまで霞がかかり、哀れを催させる眺めである。とり立てどうと言うこともない普通の春であっても、感じさせるのに匹敵する眺めであり、暮れ行く空は物悲しいのに、とりたててどうということもない普通の春であっても、暮れ行く空は物悲しく、ましてや今日が最後の事なので、さぞかし心細い事であったろう。沖に浮かぶ釣り船が波に揺られて消え入るように思われるが、それでいてなお沈みきらずに漂っているのを御覧になるにも、我が身の上の様だと思われたであろう。雁が一行を引き連れて、是がお別れと越路(北陸地方の汎称)を指して泣きながら帰って行くのを見て、雁に故郷へ伝言を託したいと願うのは、胡国に捕らわれた蘇武が故郷の漢土を恋いしたう、怨念の思いまで何一つ思い残す事は無かった。「よれゆえに、これは何事か、猶も家族への執着にとらわれた迷いの心は尽きないのか」とお思い返されて、西に向い手を合せ、念仏を唱える心の内にも、「自分がもう今が最後だと、都では知るはずがないのだから、何かの機会に託して届けられる思いがけない消息も、今か今かと待っている事だろう。結局最後には知られる事だから、この世にはいないものと聞いて、どんなに嘆く事だろうか」などと思い続けられると、念仏は途切れ、合唱していた手をほどき、聖に向っておっしゃるには、「あはれ人の身に、妻子というものを持ってはならないことでした。この世で物を思わせるだけでなく、後世菩提の妨げとなるのは残念です。只今も妻子の事が思い出されるのです。この様な妄念が生じたと言うことを心の中に残したまま、死んだならば罪深いと言う事なので懺悔いたします」とおっしゃった。
(写真:ウィキペディアより引用 紀の松島)
聖も哀れに思われたが、自分まで気弱くなってはならぬと思い、涙を拭い、何気ない風を装って申すには、「本当にそのように思われるでしょう。身分の高い者も低い者も、恩愛の道はどうにもならないものです。中でも夫妻となれば、一夜夫婦としての契りを結ぶのも五百回も生まれ変る遠い前世からの宿縁によるものと申しますから、前世の契りは浅い物ではありません。生命のある者は必ず死に出会った者は必ず離れねばならないには現世の定めです。草木の葉末にたまる露と、その根源から落ちる水滴は遅いか早いかの違いはありましても遅れ、先立つ御別れは最後に無いわけにはまりません。あの離散宮(りさんきゅう)で唐の玄宗皇帝が楊貴妃と秋の七夕の夜に夫婦の愛を誓い合った約束も、最後には心を悩ますきっかけとなり、漢の武帝が甘泉殿(かんせんでん)で先立たれた李夫人の生前の姿を描かせて追慕したという愛も終りが無いという事はございません。赤松子と梅福という漢代の仙人も共に不老長寿として知られておりましたが、それでも最後には死の悲しみから免れる事はできませんでした。等覚(とうかく)や十地(じゅうち)の悟りに達した菩薩ですら、尚生死の掟には従わなければなりませんでした。たとえ貴方がどれほど長生きして楽しみを誇りようとも、この死から免れることはできないという悲嘆から逃れることはできません。たとえ又百年の命を保たれようとも、死への御恨みはただ同じ事とお思いくださるべきです。
第六天の魔王(俗界の六欲天の最上層である他化自在天)という外道(仏教以外の邪法を信仰する者)は、欲界の六天を我物として支配し、中でもこの欲界に住んでいる衆生が生死の境涯を離れて、仏の救いを得ようとすることを惜しんで、或いは妻となり、或いは夫となって、是を妨げようとします、三世(過去・現在・未来)の諸仏は、すべての衆生を一人子のように思われて、極楽浄土に往生した者を再び現世に退転することが無いように導き入れようとなさるが、その際に妻子という者は、初めのない限りなく遠い過去より、生死を繰り返す迷いの世界に人をさまよわせ、縛りつける絆のようなものなので、仏は重く戒められるのです。妻子に対する愛着をこれまで断ち切れなかったからと言って、御心を弱く思われてはなりません。
源氏の先祖、伊予入道頼義(いよのにゅうどうらいぎ:清和源氏源頼義)は、勅命によって奥州の夷(えびす)、安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)を攻めようとして、十二年の間に人の首を斬る事一万六千人、山野の獣、河川の魚などその命を絶つ事幾千万という数もわからないほどです。それでも終焉の時には、ひたすら仏を信じる心を起したことによって、往生の本懐を遂げたと聞いております。とりわけ、出家の功徳は莫大なので、貴方の前世からの罪障は全て無くなる事でしょう。例え、人が七宝の搭を建てる事や、その高さが三十三天に至るとしても、一日の出家をした功徳には及びません。例え又百歳、千歳になるまでの間、百羅漢を供養した功徳も、一日の出家の功徳には及びもしないと経典に説かれています。
(写真:ウィキペディアより引用 熊野本宮大社、熊野那智大社)
罪深かった頼義も侵攻に対する心が強かったので往生を遂げました。貴方は、たいした罪業もおありにならないのに、どうして浄土へ参れないということがありましょうか。その上、当山(熊野三山)の権現は本地阿弥陀如来であらせられます。阿弥陀仏四十八願中の初めの地獄・餓鬼・畜生の三悪をなくす願から終りの諸菩薩に三種の法印を得させる願に至るまで、一つ一つの誓願が、衆生を教化し救済するための願いで無い物はありません。中でも第十八の願には、『設我得仏(せつがとくふつ)、十方衆生(じゅっぽうしゅじょう)、至心信楽(ししんしんがく)、欲生我国(よくしょうがこく)、乃至十念(ないしじゅうねん)、若不生者(じゃくふしょうじゃ)、不取正覚(ふしゅしょうがく)』と説かれていますので、一度の念仏でも十度の念仏でも、極楽往生できる望みがございます。ひたすら深く信じて決して疑ってはなりません。またとない真心を込めた願いをして、もしくは一返、もしくは十返も念仏をお唱えになるのであれば、弥陀如来は、極めて高く無限大である御身を縮めて、丈六八尺の御姿になって、観音、勢至、無数の仏菩薩に姿を変えて現れ百重千重と幾重もなく弥陀を取り囲み、音楽を奏で、詠歌を歌われ、ちょうど今極楽の東門を出られてこの娑婆へ御迎に来られようとされているので、御身は蒼い海の底に沈むのだと思われても、紫雲(弥陀の来迎寺の時に乗って現れるという雲)の上にお上りになられるでしょう。還来穢国度人天(げんらいえこくどにんてん)とあるように、少しも疑ってはなりません」といって、鐘を打ち鳴らして念仏をお勧め申し上げる。
(写真:ウィキペディアより引用 熊野速玉大社、那智の滝)
中将は適切な仏道へ導いてくれる聖であると思われて、直ちに妄念をひるがえし、西に向い手を合せ、声高に念仏を百返ばかり唱えながら、「南無(なむ)」と唱える声と共に、海へお入りになられた。兵衛入道(ひょうえにゅうどう)も石童丸(いしどうまる)も同じく阿弥陀の御名を唱えながら、続いて海へ入った。」 ―続く