(写真:ウィキペディアより引用 熊野那智大社
『平家物語』巻十「熊野参詣」現代語訳。「しだいに進んで行かれるうちに、日数が経つと岩田川(白浜町に注ぐ富田川の中流)にさしかかられる。「この川の流れを一度でも渡る者は、悪業・煩悩や、いつ始まったかわからない遠い前世からの罪障も消えるそうだ」と、心強く思われた。熊野本宮大社(熊野坐神社)に着き、証誠殿(しょうじょうでん:本宮大三殿で証誠大権現を祀る)の御前にひざまずきながら、しばらく経を読まれて、御山の様相を拝まれると、その尊さは心にも言葉でも言い表せない程であった。神仏が大慈悲の心を似て広く衆生をお守りくださる霞が熊野山にたなびき、他に比類なき霊験あらたかな神明が音無川の辺りに仮の姿を現わして鎮座しておられる。
(写真:ウィキペディアより引用 熊野速玉大社、
衆生を悟り彼岸に運ぶ唯一の教法である法華経の修行を行う音無川の岸辺には、神仏の感応の月は隅々まで照らし、心を含んだ六つの人の感覚器官から生じた罪障を懺悔する場所で、妄想・迷いも生じない。いずれも来世の極楽往生が期待されて頼もしくないという事は無い。夜が更け、人が寝静まってから、維盛は神前で神仏に祈願の言葉を捧げるのに、父の内大臣がこの御前で、「命を召して後世をお助け下さい」と申されたことまでも、思い出されて感慨深い。「当山の権現は本来阿弥陀如来で在ります。念仏する衆生を救い取って、捨てないという阿弥陀如来の本願に背くことなく浄土へお導き下さい」と申された中でも「故郷に残してきた妻子が安穏に暮せますように」と祈られたのは悲しい事であった。はかない浮世を嫌って避け、仏の道にお入りになられても、残してきた家族の事を思い執着にとらわれた迷いの心は尽きないと思えて、哀れな事であった。夜が明けると、本宮から舟に乗って、新宮(熊野速玉神社)へ参られた。神倉神社を参詣されると松の生えた岩山が高くそびえ立ち、拭き渡る風が迷いの夢を覚ます。川を流れる水は清く流れて、泡立つ波が煩悩に汚れた心身の垢を川の流れが除き清めてくれるように思えた。
(写真:ウィキペディアより引用 阿須賀神社)
明日社(あすかのやしろ:熊野川河口近くの阿須賀神社)を伏し拝み、佐野の松原を通り過ぎて、那智の御山に参られる。滝の水は三筋になって漲り落ち、数千丈まで高く登っているように見え、観音の霊像が岩の上に鎮座され、観音のおられる補陀落山(ふだらくさん)ともいった様である。霞の底では法華読経の声が聞え、釈迦が説法をなさった霊鷲山(りょうじゅさん)とも申すべきか。そもそも権現が当山に仮の姿で現れて以来、我が国の身分の高い人や低い人が足を運び、頭(こうべ)を傾け、手を合わせて、その御利益(ごりやく)に預からなかった事は無い。それゆえ僧侶は僧坊を作って屋根瓦を並べ、出家も俗人も袖を連ねるように大勢連れ立って参詣する。寛和(かんわ:寛和二年(九八六)六月二十二日)の夏の頃、花山天皇が法皇の帝位を退かれて、出家され、九品の浄土へ往生するための修行を行われたという御庵室(おんあんしつ:一ノ滝の上に庵室跡がある)の旧跡には、昔を偲ぶと思われて、老木の桜が咲いていた。
那智籠(ごも)りの僧達の中に、この三位中将を良く見知り申していると思われる僧がいて、同じ修行仲間に話したことは、「ここにいる修行者をどのような人だろうかと思っていたが、小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿にあられますぞ。あの殿がまだ四位少将であられた安元の春の頃(安元二年(1176)三月四日)、法住寺殿で後白河院の五十の御賀があり、父小松殿(平重盛)は内大臣の左大将であられた。伯父宗盛卿は大納言の右大将で、階下に着座され、その外三位中将知盛(とももり)、頭中将重衡以下一門の人々が、今日が晴れた事を喜ばれた。垣代(かいしろ:舞台の下の庭上に垣根の様に円陣を作り奏楽する人々)にお立ちになられている人々の中から、この三位中将が鳥兜の後ろに桜の花を翳(かざ)して青海波(せいがいは)を舞って出て来られたところ、露に濡れてなまめかしい花のように美しいお姿といい、風に翻(ひるがえ)る舞の袖といい、その美しさは地を照らし天も輝くばかりであった。
女院(建春門院)から関白殿(藤原基房)を使いとして御衣をご下賜になったので、父の大臣が座を立ち、是を頂いて右の肩に掛け、院を拝したてまつった。その栄誉は類ない物に見えた。傍らにいた同輩の殿上人が、どれほど羨ましく思われた事か。内裏の女房達の中には、『深山木(みやまぎ:奥山の常緑樹)の中の桜梅(やまももの木)のように思われます』などと言われ給われた人だ。すぐにも大臣の大将兼左大将の地位を期待されている人とお見受けしていたのに、今はこんなにおやつれになられた御有様、以前には思い及ばなかったことだ。移れば変る世の習いとは言いながら、哀れな事であることよ」と言って、袖を顔に押し当てて、涙をしきりに流して泣き続けたので、多数居並んでいた那智籠りの僧共も、みな粗末な一重の法衣の袖を涙で濡らした。」
(写真:ウィキペディアより引用 後白河法皇像、建礼門院像『文藝倶楽部』七巻十三号口絵「寂光院」)
『鎌倉散策 平重衡三、重衡と維盛』で既に記載しているが、平重衡は保元二年(1157:58の説もある)に生まれ、維盛は平治元年(1159)に生まれで、二人は同年代である。重衡は武勇にも優れ、人物像は、鎌倉初期に成立された『建礼門院右京大夫集』、『平家公達草紙』において重衡は少しの事でも人の為に心遣いをする人物であり、何時も冗談を言ったり、女房たちを怖い話などで怖がらせたり、退屈していた高倉天皇を慰めるために強盗のまねごとをして天皇を笑わせたりする話が残されている。容貌については「なまめかしくきよらか」と記されている。また、都落ちの際に常に遊んでいた式子内親王の御所に武者姿で別れの挨拶に訪れ、親しんだ多くの女房たちが涙したという。
(写真:ウィキペディアより引用 平重衡像、平維盛像)
維盛は美貌の貴公子として「光源氏の再来」と称された。平家を嫌う九条兼実の日記『玉葉』でも「十四歳であるというのに作法が優美で人々が驚嘆している」と記している。安元二年(1176)三月の後白河法皇五十歳の祝賀で、「萬歳楽」「太平楽」「陵王」「落尊入陵」を舞い、法皇は「けふの舞のおもてはさらにさらに是にたぐふ有るまじくみえつるを」と賛辞を与えた。臨席した四条隆房の『安元御賀記』「維盛少将出でて落蹲入陵をまふ、青色のうえのきぬ、すほうのうえの袴にはへたる顔の色、おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、かざしの桜にぞことならぬ」と評している。また烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「青海波」を舞いその美しさから「桜梅少将」とも呼ばれた。『建礼門院右京大夫集』では「今昔視る中に、ためしもなき(美貌)』とされ、その姿に光源氏をたとえた。『玉葉』においても「容貌美麗、尤も歎美するに足る」と記されている。
『建礼門院右京大夫集』『安元御賀記』で記されている、「青海波」の出来事は、『平家公達草紙』では「頭中将重衡」がこの場にいたとされ、さらに後代には、「頭中将重衡」が維盛と共に舞ったと認識されるようになった。これは事実ではなく維盛と共に舞ったのは藤原成宗等の貴族で、当時の重衡の官職は頭中将ではなかった。『源氏物語』では光源氏が頭中将と共に「青海波」を舞った記述により、美しい光源氏の舞の相手役は頭中将という概念があった事で重衡が維盛の相手役にされた。そこには重衡が「頭中将」にふさわしい優美で、女性の心をとらえた貴人であると捉えられていたことにあるとされる。 ―続く