鎌倉散策 平重衡 十六、八島院宣と請文 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『平家物語』巻第十「八島院宣」において、寿永三年二月十四日、後白河院の近臣平信業の子・大膳大夫成忠(行忠)が記した院宣が兵三左衛門重国と御坪(おつぼ)の召次(めしつぎ)の花方によって平大納言殿(平時忠)へ届けられた。

一人聖体(ひちぢんせいたい:天皇、安徳天皇)、北闕(ほくけつ:宮城の北門)の宮禁(きゆうきん:人の出入りを禁じた宮殿)を出でて、諸州に幸し(諸国に行幸し)、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)、 南海四国にうづもれて数年ををふ 。尤(もつと)も朝家の歎(とりわけ皇室にとっては嘆かわしい事で)、亡国の基(国家が滅亡するもとゐ)なり。すべからく頼朝朝臣申し請くる旨にまかせて(申し出た要請に従って)、死罪におこなはるべしといへども、独り親族にわかれて既に生捕となる。籠鳥(ろうちょう)雲を恋ふるおもひ(籠の中の鳥が雲を恋い慕うような思い)、遥かに千里の南海にうかび(重衡の思いが飛び)、帰雁(北国へ帰りゆく雁が)友を失ふ心(知の列から離れたような心細い気持ち)、定めて、九重の中途に通ぜんか(きうちよう:都から重裳の隔てた遠い旅の途中、八島を指す)。しかれば即ち三種の神器を返しいれ奉らんにおいては、彼(かの)卿を寛宥(かんいう:寛大な心で罪科を許す事)せらるべきなり。者(ていれば)院宣かくのごとし。仍(よつ)て執達如件(しつたつくだんのごとし:仍て以上のようにお取りゆぎ致します)。

 

(写真:ウィキペディアより引用 安徳天皇像、後白河法皇像)

 続いて『平家物語』巻第十「請文」にて、項数が増えるので現代訳で記載すると、大臣殿(平宗盛)・平大納言殿(平時忠)へ、院宣の趣旨の書状が届けられた。母の二位殿へは(重衡が)からの手紙に詳細に書かれ、「もう一度私を御覧になりたいと思われるなら、内侍所の事を大臣殿へよくよく仰って下さい。そうでなければこの世で会えるとも思えません」と、二位殿はこれを見られて、何も仰らず、手紙を懐に納めて、うつむきになられた。全く心の内でさぞかし悲しんでおられたろうと考えると哀れであった。大臣殿・平大納言をはじめとして、平家一門の公卿・殿上人が寄り合われて、院宣への返答文の内容を評議された。二位殿は中将の手紙を顔に押し当てて、大臣殿の前に倒れ伏し、泣きながら言われた。「あの中将(重衡)が京都から言ってこられた事の無惨なことよ。ほんとうに心の中ではどんなに思い詰めていることだろう。とにかく私に免じて許し、内侍所を都へお返し申せ」とおっしゃると、大臣殿は、「本当に宗盛もそのように思いますが、そうは言っても世間の聞えもおも宜しくありません。一つにはそんなことをしたら頼朝がどう思うだろうと気が引けますので、無造作に内侍所をお返し申し上げる事はできません。その上、天皇の世(帝位)を保っているのは、ひとえに内侍所がこちらの手の内にあるからです。

 

(写真:ウィキペディアより引用 平時子像、平宗盛像)

 親が子を愛おしいと思うのも、時と場合による事です。一方では中将殿一人の為に残りの子等や親しい人々をそんなことで見放してしまわれるのですか」と申されたので、二位殿は重ねて、「故入道殿に先立たれた後は、一時も生きていようとも思わなかったが、天皇(安徳天皇)が、いつ終わるという当てもなく旅を続けていらっしゃる事が心苦しく、もう一度君の御代にして差し上げたいと思うからこそ、今までも生きながらえてきました。中将が一谷で生捕りにされたと聞いた後は、肝魂も身に添わない程悲しく、何とかしてもう一度会ってみたいと思うが、夢にさえ見ないので、いっそう胸がいっぱいになって、湯水も喉に入れられず、今この手紙を見た後は、ますます思いを晴らしようもありません。中将が死んだと聞いたなら、私も一緒に死のうと思う。又物を思わぬ先に、ただ私を殺して下され」と大きな声で叫ばれると、本当にそのように思われているのだろうと哀れに思って、人々は涙を流しつつ、みな下を向いた。

  

 新中納言知盛が、「三種の神器を都へ返納申したとしても、重衡をお返しになるという事は有りそうにもない。ただ遠慮せず三種の神器を返さない訳を御返事の請文で申されるがよいでしょう」と、意見を述べられたので、大臣殿は、「この意見が最も妥当だ」と言って、御請文を書かれた。二位殿は、泣く泣く中将殿へ返事の手紙をしたためられたが、涙にくれて筆の立て所もわからず、子を思う親心に導かれて、御手紙をこまごまと書き、重国に託された。北の方大納言佐殿(輔子)は、ただ泣くことより他には為す事も無く、まったくお返事をお書きになれない。本当に心の内での悲しみはいかばかりであろうと思うと哀れである。重国も狩衣の袖を絞りつつ、泣く泣く御前を退く。平大納言時忠は、御坪の召次花方を呼んで、「お前は花方か」。「そうでございます」。「法皇の御使いとして多くの浪路を越え、ここまで参ったのに、一生の間に思い出一つはあらねば」と言って、花方の頬に「浪方」という焼き印をなされた。都へ上ったところ、法皇はこれを御覧になって、「よしよし仕方がない。浪方と言う名で仕えさせよ」といって笑っておられた

 

(写真:ウィキペディアより引用 屋島)

 二月十四日の院宣が、同じ月の二十八日に讃岐国八島の磯に到着しました。慎んで拝見し承りました。但し、院宣について、神器をお返しする事と重衡卿の命を交換する事を考えると、通盛卿以下当家の武士ども数人が摂津の国一谷で既に殺されでしまいました。どうして重衡一人の御赦しを喜ぶべきでしょう。いったい我君(安徳天皇)は故高倉天皇の位を譲り受けて、すでに四年、その政(まつりごと)は堯舜(ぎょうしゅん)の古い政道を顧み、善政を行っておられるところに、関東、北国の武士らが徒党を組み、群れを成して入京したので一つには幼帝・母后の歎きが最も深く、一方では外戚(平家一門)や近臣の憤りが浅くはなかったので、しばらく九州へ行幸された。京都への帰還が叶わなければ三種の神器をどうして天皇のお身体からお離し申す事ができましょうか。そもそも、臣は主を以て自分の心とし、君は臣を以て自分の身体としています。臣が安泰であればすなわち国も安泰です。主君が上にあって憂えれば、臣は下にあって喜び楽しむ事はできません。天皇に愁いがあれば臣に喜びはありません。

 

(写真:ウィキペディアより引用 平知盛像、平重衡像)

 先祖の平将軍貞盛(へいしょうぐんさだもり)が相馬小次郎将門(まさかど)を追討して以来、関東八か国を治めて子々孫々に伝え、朝敵の謀臣を誅罰して代々後の世に至るまで、朝家(ちょうか)の天子の運命をお守り申し上げております。それがすなわち亡父故太政大臣が保元・平治の両合戦のとき勅命を重んじて自分の命を軽んじたのです。ひとえに君の為であって自身の為にはせず、就中あの頼朝は去る平治元年十二月、父左馬頭義朝の謀叛によって、頻りに誅罰するべきだと天皇から仰せ下されましたが、故入道相国が慈悲の心で赦しを乞い宥(なだ)められたところです。しかし昔の厚恩を忘れ、清盛の好意を理解せず、たちまちやせ衰えた狼のような身でむやみやたらに一斉蜂起の乱を起す。愚かしい限りであります。早く天罰を受け、敗北し滅亡することを予期しいているかのようです。いったい日月は一つの物の為に、その明らかなのを暗くすることはありません。

 

 明王は一人の為にその法を曲げる事はありません。一悪を以てその善を捨てる事はありません。少しの誤りを以てその功績を無かったものにしてはなりません。ひとつには我家の数代に及ぶ奉公、一つには亡父清盛の数度の忠節を思われ、お忘れにならないのであれば、君は忝(かたじけな)くも四国へ行幸なさるべきでしょう。その時に、私共が院宣を承り、再び都へ帰って敗戦の恥をすすぎましょう。もしそれが叶わないなら我等平家は喜界島、高麗、天竺、震旦にまでも逃れて行きましょう。悲しい事ですが、人王八十一代の御代にあたって、我が国の神代から伝わる霊宝、三種の神器は、ついには空しく異国の宝とするのでしょうか。どうかこれらの趣旨をくみとって、よろしいように、後白河院に申し上げて下さい。宗盛が畏れ慎んで申し上げます。寿永三年二月二十八日 従一位平朝臣宗盛が請文(うけぶみ:返書)とお書きになった。 ―続く