鎌倉散策 平重衡 十五、内裏女房左衛門佐 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 寿永三年(1184)二月七日、一の谷の戦いで平家が敗れ、三位中将平重盛は生捕にされた。『平家物語』巻第十「内裏女房」で、その様相が記されている。

 同月十四日、本三位中将重衡卿が京の六条通りを東へ引き回された。小八葉(小鉢用:車の屋形に小さな八葉の蓮鼻の門をちりばめた綱台車)の車に乗せられ、前後の簾をあげ、左右の物見を開く。土肥次郎実平が、木蘭地(もくらんじ)の直垂に小具足だけを身につけ、従う警護の兵士三十余騎が、車の前後を取り囲んで護衛する。京都中の人々がこれを見て、「ああ、可哀想に。どんな罪の報いなのか。何人もおられる君達(平家)の中で、このような目に遭われる事よ。入道殿にも二位殿にもお気に入りの御子でいらっしゃったので、ご一家の人々も大変な事にお思いになっているだろう。院へも内裏へも参られた時は、老いた者も若い者も場所を開けて、敬意を払ったものを。これは南都を滅ぼされた伽藍の罰であろう」と言っていた。六条河原まで引き回されて、それから戻って故中御門藤中納言家成卿の、八条堀河の御堂(みどう)にお入れ申して、土肥次郎が守護申し上げる。

 

 院の御所からの使いとして蔵人左衛門権佐定長(くらんどのさえもんのすけさだなが:権右中弁光房の子))が、八条堀河へ向われた。赤衣(五位の者が朝廷に出仕するときに着用する緋色のを着て、剣を帯び、笏(しゃく)をお持ちであった。三位中将は紺村滋(こむらご:淡い紺色の地の所々に濃紺をむら染した)の直垂に、立烏帽子をまっすぐかぶっておいでになる。(重衡は)日頃は何とも思わなかった定長を、今は冥途で罪人共が閻魔庁の役人に会ったような心地になっておられた。「申し下されたのは、『八島へ帰りたくば一門の中へ言い送って、三種の神器を都へ返し申し上げよ。そうすれば八島へ返されるであろう』との法皇の御意向である」と申す。三位中将(重衡)は、「重衡及び千人万人の命であろうと三種の神器を返させようとは、内大臣宗盛以下一門の者共が誰も決して申しますまい。もし女性(にょしょう)であれば、母の二位の尼などがあるいはそう申すかもしれません。そうは言っても、何もせずそのまま院宣を返し参らせる事は、畏(おそ)れ多い事、ひとまず八島へ申し送ってみましょう」と申された。三位中将の使いは平三左衛門重国(代々平氏に仕え重国は重衡に仕えた)、院宣のお使いは御坪の召次(おんつぼのめしつぎ:御所の召次した役人)の花方(はなかた)ということであった。(重衡は)私的な手紙は許されないので、人々のもとへも言葉でことづけなさる。北の方の大納言佐殿(すけどの:大納言藤原邦綱の娘・輔子)へもお言葉で申された。「旅の空でも貴方は私の慰めとなり、私は貴方を慰め申しましたが、別れた後、どんなに悲しくお思いでしょう。『契りは朽ちない物』と言いますが、後の世には必ず又生れ、又巡り会い申しあげましょう」と泣く泣く言づけられると、重国も涙を抑えて出発した。    

 

 三位中将に長年召し使われていた侍に、木工右馬允知時(むくうまのじょうともとき:厩の馬や諸国の牧場を司る三等官の馬寮)という者がいた。八条の女院に仕えていたが、土肥次郎のところへ行き、向き合って、「私は中将殿に長年召し使われておりました、何々と申す者でございますが、西国へもお供仕るべきとは存じますが、八条の女院にもかねてからお仕えしていた者なので、仕方なく留まっておりました。今日大路で見申しましたところ、目も当てられず、余りにも痛々しく気の毒に思います。できることなら、許しを得て、近付いて、もう一度お目にかかって昔話などをして慰められればと思います。たいした弓矢を取る身でもないので、戦の合戦のお供をしたことはございません。ただ朝夕謹んでご機嫌を窺う為に参っておりました。それでもなお不安でおられるのなら、腰の刀をお取りあげになって、ぜひお許しをいただきたいと思います」と、土肥次郎は情け深い男で、「ひとりだけなら何のさしさわりもなかろうが、なお念のために」と言って、腰の刀を預り取って、内に入れた。

 

 右馬允(うまのじょう)は、この上なく喜んで、急いで参ってお目にかかると、(重衡は)深くお考えん込んでおられるらしく、お姿もたいそう萎(しお)れ返って座っておられるご様子をみて、知時はどうしても涙も抑えることができない。三位中将もこれを御覧になって夢の中でも夢を見ているような心地がして、何もおっしゃらない。ただ泣くより他にすることがない。ややしばらくたってから、昔や今の事をお話になった後、「それにしてもお前を通して物を言った人はまだ内裏に居られると聞いている」。「そのように聞いております」。「西国へ下った時、手紙もやらず、言い残す事もさえもなかったのに、現世のみでなく来世までもと言い交わした約束はみんな偽りであったのかと思われるのが恥ずかしい。手紙を書こうと思うが。尋ねて行ってくれないか」とおっしゃると、「お手紙を預かって参りましょう」と申す。中将はひとかたならずお喜びになり、すぐに書いて預けられた。守護の武士どもが、「どんな内容の手紙でしょうか。内容を見るまではお出しできません」と申す。中将が、「見せよ」とおっしゃるので、知時はその手紙を守護の武士どもに見せた。それを見て武士どもは「さしつかえあるまい」といって戻した。知時はその手紙を持って内裏へ参ったが、昼は人目が多いので、そのあたりの近くの小屋に入って日中は待ち暮し、局(つぼね)の裏口辺りに佇んで聞くと、この人の声と思われて、「大勢いる中で、どういうわけか三位中将だけが生け捕りにされて、大路を引き回されるとは。人は皆、奈良を焼いた罪の報いと言い合っている。中将もそう言われる。『自分の発意で焼いたのではないが、(重衡配下の官兵たちが軍令に従わず暴徒化した)乱暴な連中が多かったので、手に手に火を放って、多くの堂搭を焼き払った。末の露もとのしずくなるなれば、我一人が罪にこそならんずらめ(多くの部下の過失は大将軍の過失となるので、自分一人の罪にきっとなることだろう)』と言ったが、本当にそうだと思う」と繰り返しおっしゃって、さめざめとお泣きになった。  

 

 右馬允は、この女房の方でも思われていたのだなと、気の毒に思って、「ごめんください」と言うと、「どちらから」とお尋ねになる。「三位中将殿からお手紙がございます」と申すと、数年来、恥じ入ってお見えにならない女房が、切ない思いのあまりであろうか、「どこに、どこ」と言って走り出て、自ら手紙を取って御覧になると、西国から捕われたときの様子、今日明日とも知れぬ身の行方など、こまごまと書いてあり、奥には一首の歌があった。

「涙河(なみだがは)うき名をながす身なりともいま一(ひと)たびのあふせともがな」
(悲しみの涙が流れて良くない評判をたてられる身とはなったが、もう一度会う機会を得たいものだと願っている)女房はこれを御覧になって、何もおっしゃらず、手紙を懐に入れて、ただお泣きになるばかりであった。少し時間が経ってから、そうもしてはいられないので、お返事を書かれた。心苦しく気が晴れない思いで二年を送った胸の内をお書きになって、

「君ゆゑにわれもうき名をながすともそこのみくづとともになりなむ」
(貴方のために私も良くない評判をたてられても、海に身を投げ貴方と一緒に死にましょう)

 

 知時が、その手紙を持って参った。守護の武士どもが、又、「拝見しましょう」と言うので、見せたのだった。「差し支えあるまい」というので、その手紙を三位中将に差し上げる。三位中将はこの手紙を見て、ますます思いがつのったのであろうか、土肥次郎に、「長年ともに連れ添った女房に、もう一度対面して申したい事があるが、どうすればよいか」とおっしゃると、実平は情けのある男だったので「本当に女房などの事であれば問題はないでしょう」といって許し申し上げた。中将はひとかたならず喜んで、人に車を借りて迎えに遣わしたところ、女房は取る物も取りあえず、この車に乗っていらっしゃった。濡れ縁に車を近づけて、かくかくと申すと、中将は車寄せに出てお迎えになり、「武士どもが見ているので、降りさせてはならぬ」と言って、牛車の御簾を肩にかけ、上半身を社内に入れ、手に手を取り、顔に顔を押し当てて、しばらくは物もおっしゃらず、只泣くことより他にする事がなかった。しばらくしてから、中将がおっしゃったのは、「西国へ下った時、もう一度拝見しとうございましたが、おしなべて世間が騒然としていたために、申し伝えるべき手蔓もなく、まかり下りました。その後はどのようにしても手紙を差し上げ、お返事をいただきとうございましたが、思ひ通りにはならない旅の習い、戦で明け暮れ暇がなく、むなしく年月を送って参りました。今又、人目も恥じる子のようなみじめな捕らわれの身になりました事は、再びお目にかかる巡り合わせでした」といって、袖を顔に押し当ててうつむけになられた。お互いの心の内が推察されて哀れである。こうして夜も半ばになったので、「この頃は大路で狼藉が横行しており、危ないので早く早く」といってお帰し申しあげる。

 

 車が動き出すと、中将は別れの涙を抑えて、泣く泣く女房の袖を抑えつつ、歌を一首送られる。

「逢(あ)ふことも露の命ももろともにこよひばかりやかぎりなるらむ」

(逢う事も露のようなはかない命も、共に今夜だけが最後となるだろう)

女房は涙を抑えながら、お返しの歌を詠まれる。

「かぎりとて立ちわかるれば露の身の君よりさきにきえぬべきかな」
(今夜が最後だと言って別れてしまえば、露のようにはかない私の身が貴方よりも先に消えてしまいそうです)

そうして女房は内裏へお帰りになった。其後は守護の武士どもが許さないので、どうしようもなく、時々手紙だけを交換なさった。この女房と申すのは民部卿入道親範(みんぶのきょうにゅうどうしんぱん)の娘である。姿形は、とても美しく又情け深い人である。それで中将が、奈良へ連れていかれて、斬られなさったという噂が伝わってきたので、すぐに出家して、濃い墨染の衣を身に着け、すっかりやつれた姿になって、三位中将の後世の菩提を弔われたのは哀れなことであった。

 平重衡の正妻は大納言藤原邦綱の次女の藤原輔子である。輔子は平家一門と共に西国に落ちており、ここで語られているのは、妾である内裏女房左衛門佐であり、民部卿入道親範の子と記されているが、定かではない。また、鎌倉下向後にも重衡の世話をした千手の前と言う女性も妾として示されている。 ―続く