鎌倉散策 平重衡 十四、平重衡生捕 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『平家物語』第九巻、重衡生捕には、「本三位中将重衡卿は、生田の森の副将軍にておわしけるが、其勢(その勢い)みな落ち失せて、只主従二騎になり給ふ。三中将、其日の装束には、かちにしろう黄なる糸をもって、岩に千鳥ぬうたる直垂に(黒に近い濃紺の地にはっきりとした黄色の染糸で、岩に群がる千鳥のさまを刺しゅうした鎧直垂)、紫すそご(上部を白く、下に行くに従い薄紫から次第に濃い紫になるよう配色した糸縅:いとおどし)の鎧着て、童子鹿毛といふ(どうしかげと名付けられた)、聞ゆる名馬に乗り給へリ。めのと子の後藤兵衛盛長は、しげ目ゆいひのひたたれに(括り染め目結を多くちりばめた、総鹿の子絞りの鎧直垂)、火をどしの鎧着て、三位中将の秘蔵せられたりける夜目なし月毛(やめなしつきげ)に乗せられたり(乗せられていた)。

 

 梶原源太景季・庄の四郎高家(は)、大将軍と目をかけ(付け)、鞭を、あぶみを合わせて追っかけたてまつる(鐙を蹴って追いかけ申す)。汀(みぎわ:はまべ)には、たすけ船いくらもありけれども、後ろより敵は追っかけたり。のがれるべきひまもなかれりければ、湊川・かかる河(苅藻川)をもうちわたり、蓮の池をば馬手(右手)に見て、駒の林を弓手(左手)になし、板やど・須磨をもうちすぎて(通り過ぎて)、西をさいてぞ落ちたまふ(西を目指して落ちていかれた)。究竟の名馬には乗り給へり(くっきょう:この上ない優れた名馬に乗っておられるのので)。もみふせたる馬共追っつくべしともおぼえず(走りつかれた馬には追い付く事も出来ず)ただ延び延びに延びければ(距離が隔たる一方だった)、梶原源太影季、あぶみふんばり立ちあがり、もしやと遠矢(遠距離の目標を射る矢)によっぴいて(よく引いて)射たりけるに、三位中将、馬のさうづをのぶかにいてさせて(馬の後足の上部の骨に深々と射られて)よわるところに、後藤兵衛盛長、我が馬召されなんずと思ひけん(自分の乗る馬を取り上げられると思い)、鞭を挙げてぞ落行きける(落ちていった)。三位中将これを見て、「いかに盛長、年ごろ日頃差はちぎりらざりしものを(昔も今も約束をしていなかったものを)。我をすてて、いずくへゆくぞ(どこにゆくのだ)」とのたまえども(申したが)、空(そら)聞かずして(盛長は聞こえないふりをして)、鎧に付けたるあかじるし(鎧に付けた平家の赤印を)かなぐり捨て、ただにげにこそにげたりけれ(ただ逃げに逃げてしまった)。

 

(写真:ウィキペディアより引用用)

 三位中将、敵はちかづく、馬はよわば(衰弱し)、海へうち入れ給ひたりけれども、そこしもとほあさにて(ちょうどそこが遠浅だったので)、沈むべき様もなかりければ、馬よりおり、鎧の上帯きり、たかひもはづし、物具脱ぎすて、腹をきらんとしたまふところに、梶原よりさきに庄の四郎高家、鞭、あぶみをあわせてはせ来たり、急ぎ馬より飛降り、「まさなう候(なりませぬ)。いずくまでも(どこまでも)御供仕らん」とて、我が馬にかき乗せ奉り、鞍の前輪(まえわ)にしめつけて、わが身は乗りがへに乗って、御方の陣へぞかへりける(味方の陣へ帰っていった)。

 

 後藤兵衛は、いきながき究竟(くつきょう)馬には乗ったりけり、そこをば、なっくにげのびて(たやすくにげのびて)、後に熊野法師、、尾中の法橋(ほうきょう:法印法眼に次ぐ僧位)をたのんでゐたりけるが(頼って住んでいたが)法橋死んで後、後家の尼公訴訟のために京へ上りたりけるに、盛長ともしてのぼったりければ(盛長が供をして上ると)、三位中将のめのと子にて、上下には多く見知られたり(身分の上下を問わず多くの人に見知られていた)。「あなむざんの盛長や(ああ何たる恥知らずの盛長や)。さしも不便にしたまいしに(三位中将があれほど面倒を見ておられたのに)一所でいかにもならずして(同じ場所で死にもせず)思いもかけぬ尼公のともしたるにくさよ(思いもかけぬ尼公の共している醜さよ)とて、つまはじきしければ(非難されて)、盛長もさすがはづかしげにて、扇をかほにかざしけるとぞ聞こえし。」

 

 この『平家物語』重衡生捕の記述に、南都焼き討ちで非難されて当然である平重衡に対し後藤兵衛盛長が非難され点は非常に興味深い。後藤兵衛盛長については、伝未生であり、『平家物語』で重衡の悲劇性を強調するために創作されたとも考えられる。

本来当時の武士は、馬を故意に射る事は、卑怯な手段として考えられていた。また重衡を生け捕りにしたのは、『平家物語』では、梶原影季と庄四郎高家とされ、『源平盛衰記』では、梶原景時と庄家長と記されており、『吾妻鏡』では、梶原景時と庄家国と記されている。しかし、家国は他の初見に見られないため家長の誤記と考えられている。その理由として後の恩賞が、その武功に見合うだけの物を与えられている事が挙げられている。また、当寺の恩賞は個人に与えられるものではなく、その家の当主に与えられ、その当主により再分配される事から断定することは難しい。 ―続く