鎌倉散策 平重衡 七、平家一門都落ち | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 治承四年(1180)九月、木曽義仲は兵を率い北信の源氏救援に向かう。『吾妻鏡』同月七日条に記され、「源頼朝が石橋山で既に合戦を始めたと耳にし、直ぐに挙兵に加わり念願の意思を表そうとした。この時、平家に味方する笠原平五直頼という者がおり、今日、武士を引き連れて木曽を襲おうとした。」木曽の武士たちが義仲のもとに集まり、信濃国市原(信濃国水内郡:現長野県長野市若里南市・北市付近)で平家方の笠原頼直を破った。頼直は越後平氏の城資長のもとに逃れる。平宗盛から木曽義仲の討伐を命じられ、越後平氏として自信を持つ資長は、「甲斐・信濃両国においては、他人を交えず、一身にして攻落すべき由」と平家に願い出たと『玉葉』治承四年十二月三日条に記されている。また、治承五年三月十七日に資長は越後、会津四郡、出羽南部の兵一万を集め出陣直前の三月十六日に卒中を起こし翌日急死した。資長の死は、相次ぐ反乱や挙兵に対処に追われる平家にとっては大きな打撃であった。

  

 『平家物語』巻第六、嗄声(しわがれこえ)で「夜半ばかり俄(にわか)に大風吹き大雨下り、雷おびただしうなって、天晴霽(はれ)て後、雲井に大きなる声のしわがれたるを以って(空中から大いなしゃがれ声で)、「南閻浮提金堂(なんえんぶだいこんどう)十六丈の廬舎那仏(るしゃなぶつ:東大寺大仏)焼き滅ぼしたてまつる平家のかたうど(味方)する者ここにあり。召取れや」と三声叫んで通りける。城太郎をはじめとして、これを聞くものみな身の毛よだちけり。郎党ども、「是程おそろしい天の告げ候に、ただ理をまげてとどまらせた給へ」と申しけれども。「弓矢とる物のそれによるべきやうなし」とて、あくる十六日卯剋に、城を出て、僅かに十町(一町六十間、約百九メートル)ぞゆいたりける(行ったところ)。黒雲一むら(かたまり)立ち来たって助長が上におほうとこそ見えけれ、我にみすくみ心ほれて(意識が無くなり)落馬してンげり。輿にかき寄せ、舘へ帰り、うち臥す事三時ばかりして遂に死にけり。」と記載されている。

 

(写真:ウィキペディアより引用 東海道、東山道、北陸道(

 兄に代わり、急遽家督を継いだ城助職(後の長茂に改名:ながもち)が治承五年六月平家から追討命令をうけた城長茂は一万の軍を率い信濃に侵攻横田河原の合戦(現長野市)で義仲と戦う。長重の短慮の欠点があり、兵力に勝る城長茂に対し信濃勢三千は次々と降伏し、油断した長重は義仲に逆襲され、大敗を喫する。越後に退却するが、その兵三百騎となり、陸奥国会津まで逃れるが藤原秀衡の攻撃を受けて越後の一角の小勢力へと没落していった。義仲はそのまま父の旧領であった上野国の多胡田へむかうが、上野国において源頼朝及び藤姓足利氏との衝突を避け二ヶ月後には信濃国に戻る。小県郡依田城にて木曽義仲は越後・越中国を勢力圏に置き挙兵した。平家討伐として一気に進むが、源頼朝の東海道、武田義信の東山道を避け北陸に拠点を置き上洛を計った。義仲は、源家同士の紛争を避け、平家打倒という念願を貫こうとしていた事が、嫡子義高を頼朝に差し出した事などから窺う事が出来る。しかし、頼朝木曽義仲は越後を制圧し、東国において、源頼朝、武田信義、木曽義仲の三者が源氏の棟梁として並立する時期が続く。

 

(写真:頼朝像、ウィッキペディア引用後白河法皇像)

 『玉葉』治承五年八月一日条に源頼朝が後白河院に密使を送り、朝廷工作を始めている。呉座勇一氏の『頼朝と義時』において「挙兵は朝廷に対する謀叛ではなく、後白河院を蔑(ないがし)ろにする平家を討つためである。後白河と平家が和解したのであれば、平家打倒には固守しない。勝手の様に源平両氏が朝廷に仕え、東国を源氏が、西国を平家が支配すれば、内乱を鎮圧できるだろう」。後白河院にとっては、朝廷は武家の軍事統率力が必要で、一勢力による国家的な軍事警察権を独占するよりも、平治の乱以前の体制こそが最も安定的に思う、後鳥羽院にとっては魅力的な物であった。頼朝は、源氏の棟梁としての立場を確立するために、和平による軍事衝突を避け、義仲の平家討伐の大義名分を亡くすと言う工作であった。呉座勇一氏は頼朝の和平は、議論の余地があるが、一時的にも父義時の仇敵との共存を受け入れる頼朝の政治家としての強(したたか)さがあるとし本心からの提案と考えていると述べている。後白河院が頼朝の提案を平宗盛に打診したところ、宗盛は「頼朝を討つことは亡き父の遺命であり、勅命であっても従えませんと断った」と返したとされる。

 

(写真:鎌倉鶴岡八幡宮)

 『玉葉』によると、寿永元年(1182)七月、以仁王維持北陸の宮が平家の監視かた逃れ、その後木曽義仲を頼り、義仲は北陸宮擁立による上洛への大義名分を得たことになった。頼朝と義仲は翌寿永二年の春から険悪な状態になる。それは、定説では義仲が頼朝に敵対する志田義広や叔父の源行家を庇護した事や武田信光の讒言などとされるが、北陸宮擁立が頼朝の不信感を強めたと考えられる。義仲は頼朝との対立を避け北陸道に進出し、勢力圏のすみわけを計ろうとし、また嫡子義高を、鎌倉に派遣する事で関係悪化を回避した。『吾妻鏡』では頼朝の長女大姫のいいなずけとして記載されるが延慶本『平家物語』では実態として人質として記載されている。義仲の早急な上洛において、後に頼朝の軍事力に頼らざるを得ない部分があった。

 

(写真:京都東寺 鴨川)

 寿永二年(1183)四月、平家は義仲の北陸道人鎮圧の為に平維盛・行盛・忠度率が率いる平家の総動員の追討軍を派兵する。『玉葉』では四万余騎、『平家物語』では約七万騎、義仲軍は『玉葉』では五千余騎』と記している。平家の軍は越前国の火打城の合戦に勝利し・加賀に入った。越中・加賀国境で、平家軍は奇襲を受けるなど一進一退が続く。そして、五月十一日に昼間はさしたる攻撃を加えず、油断し寝静まった夜に平家軍に対し三方から奇襲をかけた。そして混乱に陥った平家軍は、敵が攻め込まない方角に向け逃走する。しかしその先は倶利伽羅峠の断崖が待ち構え、我先にと逃走する平家の将兵が谷底に落ち平家の追討群は大半をなくすという大敗を喫した。『源平盛衰記』によると義仲は数百頭の牛の角にたいまつをつけて平家の陣に追いやるという奇策を用いて勝利したという。しかしこれは、中国の『史記』田単伝(でんたんでん)の「火牛の計」を用いた創作と考える。『玉葉』では「官軍(平家軍)の先鋒が勝ちに乗じ、越中国に入った。義仲と行家及び他の源氏らと戦う。官軍は敗れ、過半の兵が死んだ。」とのみ記されている。平家の先鋒が勝ちに乗じ前進しすぎたことが敗因であり、平家の大軍を以っても、山間部の戦闘は不利になり、義仲は地の利を生かし、遊撃戦と奇襲に長けた戦法であった事がわかる。

 

(写真:ウィキペディアより引用 平維盛像 平重衡像)

 平維盛は、富士川の戦いに次いで二度目の大敗を喫し、命からがら加賀国へ退却し、加賀国の篠原で兵馬を休ませていたところ義仲はそれを捉えた。平家一門の平知度が討ち死にし、篠原の戦いで『玉葉』によると平家軍四万余騎、義仲軍五千騎であり、壊滅的打撃を受ける。平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経らは一人の供もなく逃げ去った。敗因は六月五日条に大将軍(維盛)と三人の侍大将(盛俊・景家・忠経)が権威を相争ったためと記している。守利・景家は、平宗盛の家人で忠常は維盛の小松家の家人であり、一門主流と小松家の確執が指揮系統の混乱を招いたと考えられる。

 木曽義仲は六月十日に越前、さらに十三日には近江へ入っている。そして延暦寺と交渉し、七月に遂に念願であった入京を果たした。義仲の入京直前に平家は大軍を失った事から防戦をあきらめ放棄を余儀なくされた。安徳天皇と三種の神器を伴い京から西国に落ち延びる。平重衡も妻の輔子(藤原邦綱の次女)と共に都落ちをした。 ―続く