『平家物語』巻五「奈良炎上」にて、「二十九日、頭中将(平重衡)、南都を滅ぼし北京(奈良に対して京都をさす)へ帰りいらる。入道相国ばかりぞいきどほりはれて、喜ばれけれ。中宮・一院・上皇・摂政殿以下の人々は「悪僧をこそ滅ぼすとも、伽藍を破滅すべしや」とぞ御嘆きありける。宗徒の頸(首)ども、もとは大路をわたし(ひきまわし)て獄門の木に懸らるべしと聞こえしかども、東大寺・興福寺のほろびぬるあさましさに、沙汰に及ばず(何の指図もなく)、あそこここの溝や堀にぞ捨て置きける。聖武皇帝、宸筆(しんぴつ:直筆)の御記文には、「我寺興福せば天下興福、し、吾(わが)寺衰微せば天下も衰微すべし」とあそばされたり(記された)。されば天下の衰微せん事も疑いなしと見えたりける。あさましかりつる年の暮れ(嘆かわしかった年の暮れも)、治承も五年になりにけり。」
(写真:奈良 東大寺二月堂)
この南都の焼き討ちは、平家がもたらした大罪の最たるものとされ、平重衡は、南都の宗徒から最も憎まれた。この焼き討ちについては、語り本系、八坂流『平家物語』では、過失による焼失の旨を記しているが、読み本系の『延慶本平家物語』では、故意による焼失の旨が記されている。従来、琵琶法師によって語り広められた語り系『平家物語』を読み物系として加筆された物が読み物系『延慶本平家物語』等と解釈されてきた。しかし近年では読み本系、特に『延慶本平家物語』が語り系『平家物語』よりも古態を存するという見解が有力視され、『延慶本平家物語』は歴史研究においても活用されている。しかし、ここでは、その是非は問わず、後に『吾妻鏡』元暦元年(1184)三月二十八日条に記される重衡の鎌倉下向にて頼朝と謁見で語るとする。
(写真:奈良 東大寺)
この治承五年(1181)正月十四日、高倉上皇が六波羅池殿(平頼盛邸)にて二十一歳で崩御。「御宇(ぎょうう)十二年、徳政千万端、詩書仁義の廃(すたれ)たる道を起こし、理性安楽の絶える跡を継ぎたまえ譜。」。―仁慈にあふれた善政をきわめて多く行われ、詩経に説かれている仁義の道が廃れていたのを復興し、世を治め、民を安楽にする治政が絶える中で再びその治世を継承された―。後白河法皇の第七皇子で、清盛の娘・徳子を中宮に迎え、平家を後ろ盾に治政を行った。高倉上皇が崩御した事で平家も朝廷への権勢に陰りが見え始める。
(写真:平清盛像、六波羅蜜寺平清盛塚)
そして、二月二十七日、平清盛は、原因不明の熱病に臥せった。三日三晩に亘(わた)ってうなされ悶え苦しみ、重ねて来た悪行のために成仏できそうにない己の顛末に思う。清盛が炎のような高熱にさらされ臨終の間際に「今生の望一言ものこる処なし、ただし思ひおく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸をみざりつるこそやすからね。…やがて打手をつかわし、頼朝が頸をはねて、わが墓のまえに懸けるべし。それぞくようにてあらんずる」と言ったとされる。治承・寿永の乱に勝利した源頼朝であったが、平治の乱後、平清盛の継母・池禅尼が梟首される頼朝を清盛に懇願されたことで流罪とし、命を救われた。清盛にとっては、いかに悔やまれる思いだった事かと窺われ、閏二月四日、平清盛六十一歳で死去。
(写真:ウィキペディアより引用 後白河院像)
平家の悪行の最たるものとして南都焼き討ちが挙げられるが、平清盛にもその言い分はあった。「金が無いのに使うだばかりで策を打たず、各地に反乱が起きても治める事も出来ず、何も出来ず貴族と偉そうにするばかりの坊主が支配する、このむさ苦しい世を富と武力で変えた」。平安期において、南都北嶺の大衆(僧兵)は、仏教の教えを学ぶ事無く、教えに反して強硬な武力勢力として位置付けされ、各寺院は僧兵により守られた。朝廷や摂関家に対し強訴を繰り返し、宗教的権威を背景とする強訴は僧兵の武力以上の威力を持ち、しばしば朝廷や院を屈服させ、国府や他領との紛争を有利に解決させている。朝廷はその対策を何も出来ず、軍事貴族に頼らざるを得ず、悪僧を滅ぼすとも批判は少なかった。しかし、寺院の伽藍を焼亡した事が後の世にも平家の悪行が語られる。しかし武士の世にもなりながら、武士の権威は天皇制律令国家においてぜっあい的な物であり、後白河院の幽閉及び朝廷に対する行為が後の世まで平家の大罪と語り継がれた要因であった。本来なら鎌倉幕府執権北条義時と後鳥羽院との承久の乱でも大罪と称すべき事例であるが、鎌倉幕府滅亡後も足利氏が創立した室町幕府は、鎌倉幕府を継承し、北条義時と泰時の治世を基に開かれたため、承久の乱の批判的な文献は作られなかったと考える。
(写真:京都 比叡山延暦寺)
同年閏二月二十三日、平重衡の妻輔子の父・藤原邦綱が死去する。邦綱は、平家と密接な関係を持ち清盛の盟友であった。四人の娘を六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、そして高倉天皇の中宮・平徳子の乳母を務めさせている。また、近衛基実の死去後に基実室・白河殿盛子の後見人であった事から摂関家領を盛子に相続させるなどを行い反平家勢力の公卿等に批判を買った。重衡の朝廷での後ろ盾が万全な物でなくなり、後に平家棟梁になった平宗盛の長子清宗に一時期位階を抜かれている。
同年閏二月十五日、源行家が尾張に侵攻したことで、平重衡・維盛は出陣した。源行家は源頼朝の叔父であり、頼朝の配下には入らず独立した勢力として三河・尾張に勢力を築くために進出する。これに対し、平重衡・維盛は『平家物語』では三万騎を率い、墨俣に布陣する行家勢六千騎と対峙した。行家勢は三月十日の夜間に奇襲をかけ、渡河を行う。平家軍は渡河で水にぬれた兵士を見て敵兵であることに気付き、行家勢は大敗を喫した。この戦で源頼朝の異母弟、義経の同母兄の義円が討たれ、尾張源氏の源重光、大和源氏の源頼元等の源氏一門の諸氏が討ち取られる。『吉記』によると首級三百九十名であったと記されている。行家の次男行頼は平家勢に捕らわれ、行家は熱田に籠るが、そこでも打破られ、三河の矢作まで撤退し、そのまま敗走した。平家勢はそれ以上進撃せず撤退している。
(写真:ウィキペディアより引用 平重衡像)
寿永元年(1182)九月に重衡の郎従が従弟平経平(平清盛の異母弟常盛の長子)の郎従と衝突し、経平の父常盛が、重衡の兄・宗盛に謝罪して収集したが『吉記』寿永元年九月十一日条に平家一門の分裂を危惧する事態となった事を記している。 ―続く