鎌倉散策 平重衡 五、南都焼き討ち | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:京都 宇治の平等院)

 治承四年(1180)五月十五日に後白河法皇の第三皇子・以仁王が平氏政権化の中で勅命と院宣が下され皇族籍を剥奪去れ、源姓を下賜され「源以光」となり土佐国に配流が決まった。その日の夜に検非違使の土岐光長と源兼綱(源頼政の養子で、後に乱の首謀者が頼政と知り頼政の下に付く)を追補使として以仁王の居館に向かわしたが、すでに抜け出して園城寺に逃れていた。翌十六日に平家討伐の令旨を出し、源頼政らと共に挙兵する。園城寺や諸国の源氏とも連携をした反平氏活動が起こった。しかし園城寺と対立していた延暦寺の協力も得られず、園城寺内でも親平家派も少なくなかった。以仁王は南都の寺院勢力を頼り、五月二十六日、頼政が氏で防戦する中、以仁王は興福寺に向かうが南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊東忠綱らにより討たれる。源頼政と子息の中綱・中家・兼綱及び渡辺等の面々と共に宇治平等院で壮絶な最期を遂げた。『平家物語』では飛騨守景家の軍勢により光明山鳥居の前で討たれたと記載されている。平重衡と甥の維盛は共に大将軍として出陣し、この反乱を早期に鎮圧した。

 

(写真:ウィキペディアより引用 以仁王)平清盛像

 以仁王に与した園城寺は平家政権により朝廷法会の参加を禁止され、僧綱(そうごう:日本における仏教の僧尼を管理するために置かれた僧官の職)の罷免、寺領の没収が行われた。この年、京都を含む西国は極端に降数量が少なく農産物の収穫量が激減しており、この養和の大飢饉により餓死者が大量に発生し、土地を放棄する農民も多数発生している。この飢饉により政権を掌握した平家に対し反感がより一層強まったとも考えられ、そして治承四年六月三日、福原への遷都が敢行された。『平家物語』では、この福原から後鳥羽院は平家打倒の院宣を前右兵衛督光能卿により源頼朝に下されている。頼朝挙兵の知らせを受けた平清盛は、九月五日に追討軍の派兵を決定し、追討軍として平維盛、忠度、知度が任じられるが、軍の編成が遅れ、福原を九月二十二日に出立。京に入るが総大将の維盛と次将・参謀役の藤原忠清と出立の吉日の是非をめぐり京を出立できたのが同月二十九日となり、無駄に時間を浪費してしまった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 平維盛像、富士川)

 『平家物語』では追討軍は進軍しながら「駆武者」を集め七万騎と記しているが、『吾妻鏡』同年十月二十日条では、平家追討軍は四千余騎から二千騎ほどに減ってしまったと記されている。駿河国富士川で平維盛率いる二千騎の平家の追討軍と源頼朝・武田信義の源氏四万騎とが対峙した。平家追討軍は兵糧の欠乏と兵力差による士気が低下し、戦意も喪失しており、平家軍は奇襲を恐れその夜に突如退却する。『吾妻鏡』では、「武田信義が計略を企て、密かに平家の陣の背後を襲おうとしたところ富士沼に集まっていた水鳥が飛びだった。その羽音はまったく軍勢の音のように思われ、平家の軍勢は驚きあわてた。」と記載されている。

 この富士川の合戦で平家が敗れたことを知ると後白河院と密接につながる園城寺や、関白・松殿基房の配流に反発する興福寺も公然と反平氏活動を始めた。清盛は悲願であった福原遷都をあきらめ京に環都する。この年に十二月六日、近江源氏の山本義経・柏木吉兼兄弟が平家打倒の兵を挙げた。近江源氏と園城寺僧兵が共闘し平家との戦闘・近江攻防が起こる。平家は総力を挙げ鎮圧を行い、平知盛らにより近江源氏は破られ山本義経・柏木吉兼等は近江から逃亡する。同年十二月十一日に平重衡は、以仁王の挙兵及び近江源氏と共闘した園城寺内の僧兵たちに攻撃を加えられた。園城寺に火がつけられ、六三七棟の伽藍が炎上している。この後、平家政権に反抗的立場をとり続ける寺社勢力に属する大衆(だいしゅう:仏僧の集まりで、後に僧兵を示す)の討伐として東大寺・興福寺の焼き討ちに繋がった。十二月二十五日、重衡は四万騎を率い南都に向かう。

 

(写真:奈良 般若寺)

 『平家物語』巻第五、奈良炎上にて、「入道相国かようのことどもつたえ聞き給ひて、いかでかよしと思はるべき。数々南都の狼藉を鎮めんとて、備中住人瀬能太郎兼康、大和国の検非違使に補せらる。兼康五百余騎で南都に発向す。「相構えて宗徒は狼藉をいたすも、汝らはいたすべからず。物の具なせそ(甲冑を身に着けるな)。弓箭を帯せそ(きゅうせんを帯びるな)。」とて向けられたりけるに、大衆かかる内儀(ないぎ:内々の取り決め)をば知らず、兼康が余勢(兼康の軍勢の一部)六十余人から捕らへ。一々にみな頸を切って、猿沢の池のはたにぞかけ並べたる。入道相国大いに怒って、「さらば南都を攻めよや」とて、大将軍には頭中将重衡、副将軍には中宮亮通盛(清盛の弟憲森の嫡男)都合其勢四万余騎で、南都に発向す。大衆も老少もきらはず(老人や若者の区別なく)、七千余人、冑の緒をしめ、奈良坂・般若寺二ケ所路を掘り切りって堀ほり、かいだてかき(搔楯:楯を垣の様に並べ防塞とした)、さかも木ひいて(先を尖らせた大木を外に向けて並べた防塞)待ちかけたり。平家は四万余騎を二手にわかって奈良坂・般若寺二ケ所の城郭におしよせて時をどっと造る。大衆(僧兵)はみなかち立ちうち物也(徒歩で太刀を持つ)。官軍は馬にて駆けまわし駆けまわし、あそここに追っかけ追っかけ、さしつめひきつめ散々に射ければ、ふせくところの大衆、かずをつくいて(ある限りの者全て)討たれけるや。」

 

(写真:奈良興福寺)

 『平家物語』では、平清盛は瀬能兼康に、できる限り穏便に解決することを示唆し軽武装の五百余騎を出動させたが、南都の宗徒が兼康勢の六十余人を捕らえ斬首した。その頸を猿沢の端に並べた事により激怒した清盛は、重衡に出動を命じたとある。しかし、九条長兼実の日記『玉葉』や中山忠親の日記『山槐記』等の同時代の資料には見られず、事実であるかは定かではない。『玉葉』、同月十二日条に、南都の大衆が末寺や荘園の武士らを動員して上洛するという噂や、同月十四日条には、それに乗じて延暦寺の大衆が六波羅を襲撃するなどの噂が流れていることが記されている。

 

(写真:奈良 東大寺)

 『玉葉』『山槐記』の治承四年十二月十六日条には南都を出発した大衆らが京都に向かっているという流言により官軍が出動する騒ぎが起こった。また『玉葉』の同月月二十二日条には「悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払ひ、一宗を魔滅す」べく南都への準備が進められたと記されている。『平家物語』では、官軍四万余騎と記されるが、『山槐記』同月二十五日条には数千騎と記されている。また、その大衆の数も『平家物語』では七千、『玉葉』同月二十七日条では、「六万とされる兵を以って防備を固めた。」と記される。平重衡の軍勢は二十五日京を出発後悪天候のため宇治に留まった後の二十七日に木津(京都府木津川市)に達し、重衡の軍勢は木津と通盛の軍勢は奈良坂へと二手に分かれ侵攻した。南都側は、木津川沿岸や奈良坂,般若坂で抵抗を続け、翌二十八日には、各防衛線を突破し南都に入って激戦が続く。平家・官軍が有利な状況であったが依然として決着はつかず、夕刻に入ると平家・官軍が奈良坂と般若寺坂を占拠したまま本陣を般若寺坂沿いの般若寺に移した。般若寺は東大寺の北側のごくわずかの距離に位置する。

 

(写真:奈良東大寺 二月堂)

 『平家物語』では「夜いくさになって、暗さは暗し、大将軍頭中将、般若寺の門の前にうっ立って、「火を出せ」との給う程こそありけれ、平家の勢の中に、播磨国住人、福井庄下司、二郎大夫友方といふもの、たてをわり、たい松にして、在家(在郷の家、民家)に火をぞかけたりける。十二月二十八日の夜なりけらば、風ははげしし、ほもと(火のもと)は一つなりけれど吹きまよう風に、おほくの伽藍に吹きかけたり。」と記されている。本来、放火は合戦の常とう手段であるが、興福寺・東大寺大仏殿までに焼き払うような延焼は重衡たちの予想を超える大規模なものであったと考える。しかし、僧房等を焼き払う事は当初からの計画であり『延慶本平家物語』では「寺中に火を討ち入りて、敵の龍りたる堂舎・坊中に火をかけて、是を焼く」と示唆しており、事実かは定かではない。この火災により罹災した範囲は北は般若寺、南は新薬師寺付近、東は東大寺・興福寺の東端、西は佐保辺りまで及び、現在の奈良市の主要部の大半にあたる地域を巻き込んだ広範囲なものであった。多くの仏像・仏具・経典が失われ、東大寺本尊の国家鎮護の要である大仏も焼損し、頭部と手は焼け落ちて仏心の前後に転がったという。南都焼き討ちは、平家がもたらした大罪の最たるものであり、平重衡はそれを一身に抱えることになった。 ―続く

 

(写真:ウィキペディアより引用 平の秀衡像)