平治元年十二月九日に起こった平治の乱で、平家の軍勢、藤原信頼・源義朝を破り、栄華を固めて行きく。乱の後、平清盛の知行国となった大和国に対し、清盛は南都寺院の持つ従来の特権を無視し大和全域において検断(警察・治安維持・刑事裁判に関する行為・権限・職務を総称した語)を行った。これに東大寺と興福寺は反発する。東大寺は聖武天皇発初願により創建されて以降、鎮護国家体制の象徴的存在として歴代の天皇の崇敬を受けてきた。また、興福寺は藤原氏の氏寺で皇室及び摂関家の権威を背景に大衆と称する自衛を目的とした僧侶集団が結成され、武装化した僧兵を恃(たの)みとして対抗していた。
(写真:奈良東大寺)
清盛の後を継いだ平重盛は、後白河院の中臣として正二位内大臣として朝廷と平家の間を取り持っていたが、妻の兄である藤原成親が平治の乱で藤原信頼・源義朝側に付き、解官。慈円の『愚管抄』では、成親を「フヨウの若殿上人」と記され、また後鳥羽院と成親は男色関係にあったとする。また重衡は、後白河院との関係を良好にするために重盛の嫡子・維盛に成親の娘を娶っている。
平時忠等が憲仁親王(後の高倉天皇)を皇太子に立てる陰謀が発覚し、成親も含まれていたため解官。そのたびに、平重衡は、復帰の召喚に力を尽くしたとされる。また、嘉応元年(1169)十二月二十四日、嘉応の強訴で解官され、備中首謀者のへ流罪と決定したが、二十八日には召喚され、翌年正月には右兵衛督・検非違使別当となる。九条兼実の『玉葉』では、この処置に対し「天魔の所為なり」と酷評している。重衡の介入があったと考えられる。
(写真:京都 鹿ヶ谷 哲学の道)
安元三年(1177)六月の鹿ヶ谷陰謀事件で、首謀者の藤原成親と西光が流罪と処刑に留め、後白河法皇の責任は問わなかった。重盛は父清盛へ、院への所罪を問う事をさせなかったが、義兄・成親の流罪を覆すことが出来なかった。というよりも、もうかばいきれない状況で、命を救うことは無益よりも害であることを認識したのだろう。成親は六月二日に美全国に配流され『百錬抄』には重盛から衣類を送られるなど援助を受けていたが七月九日に死去したとされる。『愚管抄』では、食事を与えられず餓死したとされる。重盛は父清盛に対しても、後白河院に対しても自身の面目は潰されてしまった。
後白河院と平清盛の関係は、重衡により均衡状態を保っていたが、治承二年(1178)二月に重盛は、内大臣の職の辞任を申し出る。しかし、清盛の娘・徳子を猶子にしていたため許されず、治承二年(1178)十一月に清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮として第一皇子を産んだ。清盛は皇子を皇太子に据えるよう後白河院に迫り、親王宣旨が十二月九日に下され言仁(ときひと)と命名され立太子にとされた。重盛は、皇太子の養育係である東宮傅(とうぐうのふ)を推挙されるが、固辞した。これに伴い、皇太子周辺から院近臣を排除し、皇太子の後見人・東宮傅として左大臣・藤原経宗。春宮坊は、春宮大夫平の宗盛。権大夫、花山院兼雅。亮、平重衡、権亮平維盛等の平家一門と親平家公卿で固められた。そして重盛は病のため、六原の小松殿に籠るようになり三月には熊野に参詣し平家の後世を祈ったという。やがて病状が悪化、同年五月二十五日に出家し、法名は浄蓮となる。六月二十一日には後白河院が重盛を見舞っている。同月十七日に清盛の娘・白河殿盛子が二十四歳の若さで亡くなり白河院に最も忠勤に仕え平家で最も院に近い人物であり、また東国においても人望があり、平家の衰退は止めることが出来たと言われるほどの人物であった。
(写真:京都 清水寺)
後白河院は、藤原基実の遺領を継いだ妻の盛子(清盛の娘)が亡くなると、院近臣・藤原兼盛が白河殿倉預(くらあずかり)に任じ、後白河院の管理下に入った。『玉葉』治承三年六月十八日条では、「異姓のみで藤原氏の所領を押領したので春日明神の神罰が下った」と荒唐無稽な反平家寄りの公卿たちの噂が流れていたと記される。本来、盛子の遺領は夫であった基実の子・基通が継承するか、盛子が准母となっていた高倉天皇が相続する事が道理であり、後白河院は事実上、盛子の遺領をすべて没収してしまった。同年十月九日には、重仁安元年(1166)以降の重盛の知行国であった越前が、除目で院近臣で清盛の次男・基盛の娘を妻に娶っていた藤原季能が越前守となり、盛子同様に後白河法皇に没収された。また人事面においても清盛の娘・完子を嫁がせていた二十歳の藤原基通を差し置き関白の松殿基房の子、八歳の師家が権中納言に任じられる。これらの後白河院の対応は、反平家の意思表示であり、対して平清盛は、面目を潰され激怒する。
(写真:京都 六波羅蜜寺)
治承三年(1179)十一月十四日、清盛は、数千騎の兵を擁して福原から上洛し八条殿に入った。洛中では騒擾を極め、民衆は争乱の気配に怯えた。これが治承三年の政変で、翌十五日に藤原基房・師家親子が解官され、基通が関白・内大臣・氏長者に任命される。後鳥羽院は清盛の強行に驚き信西の子・静賢を使者に立、今後政務に介入しないことを申し入れたが、清盛は十六日に天台座主・覚快法親王が羅免され新平氏側の明運が天台座主に復帰させ、十七日には太政大臣・藤原師長以下公卿八名、殿上人・受領・検非違使三十一名の総勢三十九名が解官させた。この中には、清盛の子・忠盛の五男・頼盛や縁戚の花山院兼雅、藤原季能が含まれ、諸国の受領の交替も大幅に行われた。平家の知行国は政変前では十七ヶ国から三十二ヶ国となり、『平家物語』巻第一の五身栄花で「日本秋津洲はわずかに六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、すでに半国に及べたり」で語られている。十八日、藤原基房太宰権師に左遷の上で配流。師長、源資賢の追放の宣命・詔書が高倉天皇により発給された。二十日には、清盛の指示により後白河院は武士が厳しく警護する鳥羽殿に遷され、信西の子藤原成範、藤原脩範、静賢と女房以外の出入りが許されない幽閉状態となり、後白河院制は停止された。
(写真:ウィキペディアより引用 『天子摂関御影』より「後白河院」藤原為信画、 以仁王像)
清盛は、自身の軍事独裁を考えていたわけでなく、福原に戻り、後の措置を平家棟梁となった宗盛に託している。また人事面において左大臣・経宗、右大臣・九条兼実等の上流公卿には地位を認め協力を仰いだ。また、清盛の弟・平経盛に修理大夫に任じたほどで、解任された公卿の後任は親平家、中間派の藤原氏の公卿を用い、また解任された公卿の多くが翌年には復帰している。後白河院の第三皇子。以仁王の所領も没収された。道理に合わない計略好きの後白河院の施策により、より一層の平家の権力を構じてしまい。治承四年(1180)二月、高倉天皇は言仁親王に譲位して平氏の傀儡政権として高倉院政の開始が早められた。治承四年五月二十六日の以仁王の挙兵は、これにより皇位継承の道が断たれ、所領を没収された治承三年の政変が誘因となったとされる。また、園城寺及び南都の東大寺、興福寺が治承三年の政変で平家による厳しい処罰に対し危機感を覚え、以仁王の挙兵を契機に源氏と共に反平氏活動に向かわせた。 ―続く
(写真:奈良 )興福寺