平安末期から鎌倉初期にかけて、文覚上人という不思議な人物が登場する。摂津源氏配下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出で、俗名遠藤盛遠、父は左近将監茂遠であった。北面武士として鳥羽天皇の皇女・統子新皇(上西門院)に仕えていたが、十九歳で出家した。
(写真:ウィキペディアより引用 神護寺蔵 文覚像東京国立博物館寄託)
出家の原因は、『源平盛衰記』巻十九で「文覚発心し附東帰節女」とある。盛遠は、人の申に非ず、袈裟御前を女房にせんと、内々申侍りしを聞はわず、渡辺が許へ遺たれば、此三箇年人に知れず恋に迷いて、身は蝉のぬけがらの如くに成ぬ、命は草葉の露の様に消えなんとす…」。従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前に横恋慕をして、渡辺渡を殺そうとして袈裟御前を誤って殺してしまったとある。この話は、創作とされており、出家の原因は定かではない。『平家物語』では巻五に「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣」にまとまった記述があり、「文覚荒行」にて「彼文覚と申は、…十九の歳道心を起こし出家して、修行に出でんとしてけるが、」。那智滝の下流で滝に打たれる文覚が不動明王の使いの八大童子である矜羯(こんがら)童子・制多迦(せいたか)童子がやって来て修行を成就する事や、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として等が描かれている。
(写真:ウィキペディアより引用 月岡年賀 歌川国芳画)
真言宗の僧として、京都高尾山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党棟梁・源頼政の知行国の伊豆に配流された。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住む。そこで平治の乱の首謀者であった源義朝が敗れ、嫡子であった十四歳で嫡男・頼朝が伊豆国蛭ヶ島に配流中だった事で知遇を得る。「福原院宣」に平治の乱で敗れた源義朝が尾張国知多郡のまで相伝の家人長田忠致親子に殺され、京都に首を晒された。牢獄の番人からその首をもらい受けた髑髏(どくろ)を頼朝の前に差し出し「伊豆国流人前兵衛佐頼朝こそ勅勘をゆるされて、院宣をだにも給わらば、八ヶ国の家人どもを催し集めて平家を滅ぼし、天下をしずめんと申し候へ」。と挙兵を即した。配流地の伊豆から福原の藤原光能のもとにへ赴き後白河法皇に兵士追討の院宣を出させるように迫り頼朝にわずか八日で院宣をもたらしている。『平家物語』としての演出で、事実には程遠い面もある。
『愚管抄』では、「また一説には、光能卿が後白河法皇の御意向を察して、ちょうどそのころ高尾の神護寺の再興のために力を入れすぎて伊豆に流された文覚と言う上人が あったので、その文覚に命じて頼朝に言ってやったとかいう。しかし、これは事実ではない。文覚は上覚・千覚という弟子の聖と共に流され、四年の間おなじ伊豆国で朝夕頼朝に慣れ親しんでいたのであり、その文覚が、後白河法皇の命令もないのに法皇や平家の心の内をさぐって差し出がましい事を言ったのである。」と記している。また六巻にて、文覚は後鳥羽天皇から東寺の復興のため院分であった(法皇が国司の収入分を領有している国)の播磨国・備前国を与えており、頼朝は文覚に約束を交わしていた高尾寺(神護寺)、東寺の興隆のために人からぬ援助したと記している。また慈円は文覚について「修行にかけては人に後れを取らなかったが学問は無い上人であった。またあきれるほどに人を罵り悪口を言うので人々の非難を受け、天狗を祭っているなど噂されたこともあった。しかし、仏法興隆の誠が心をとらえたからであろうか、播磨国を七年も管理し、東寺の再興を成し遂げたのである。」
(写真:ウィキペディアより引用 西行像)
『井蛙抄』に当時文覚上人は、「和歌を詠む西行を嫌い、遁世の身であれば、一筋に仏道修行の他は携るべきではない」と弟子たちに語っていたという。文覚は西行と同じように武士から出家した僧であり、「どこかで出会うなら頭を打ち割ってやろう」とも語った様子である。しかし西行が神護寺に現れ文覚は丁寧に挨拶をし、ねんごろに話をして食事まで出したと言い、翌朝何事もなく帰って行ったという。弟子たちは何事もなかった事を喜んだが、何時もの言う事と違う事を文覚に尋ねた。文覚は「まったく言う甲斐のない法師たちだ。あれは文覚に打たれるような者の面をしているか。文覚をこそ打つ様な者だぞ」と語ったとされる。そしてこれらの縁が基になったのか、文覚上人の弟子である年若い修行僧の明恵(みょうえ)にも会い、後に和歌の真髄を語っている。全く不可思議な人物である。
(写真:江ノ島)
『吾妻鏡』寿永元年(1182)四月五日条には、「武衛(源頼朝)が腰越から江の島にお出かけになった。…これは高尾の文覚上人が、頼朝の御願を祈るため、大弁才天をこの島に勧請し、初めて供養法を始めることから、特別に臨席されたのである。」と記さる。また鎌倉の田楽辻子の道の西端に文覚上人屋敷跡の碑が残されている。 慈円は、西行と合い有する物があり、今で言う親友として位置付けられていたが、『愚管抄』で述べたように、「仏法興隆の誠が心をとらえたからであろうか、播磨国を七年も管理し、東寺の再興を成し遂げたのである」。と言うことは真実を物語っているように思う。
九条兼実の日記『玉葉』巻三十八寿永二年(1183)九月二十五日条では、「伝聞、文覚聖人を以て、義仲等を勘発せしめる云々。是追討懈怠、並びに京中を損じる由云々。即付件聖人陳遺云々」と頼朝が文覚を木曽義仲のもとに遣わし、平氏追討の懈怠や京中での乱暴などを糾問させたという。
『平家物語』巻十二「六代」では、京の大覚寺菖蒲谷にいる事をある女房が六波羅に報せ、隠れていた維盛の妻・北の方平維盛の遺児六代が発見された。文覚は、十二歳の六代午前を「あはれ」に思い、頼朝に直接助命嘆願を行い、許し文を受け取りに鎌倉へ行く。その期限が過ぎ、北条時政に警護され東国へ下る。駿河国の千本の松原まで来ると、時政は、たとえ誰がお願いしても鎌倉殿の心は変わるまいと思い、その地で斬首する事になる。六代は、従者についてきた斎藤五・斎藤六兄弟を呼び寄せ「決して途中で切られたと言ってはならぬ、ありのままの私の最後の様子を聞かれて母上があまりにもお嘆きになるようだと私も草葉の陰で心中辛い思いをし、それが来世の極楽往生の妨げになるであろう」、そして「鎌倉まで送りつけて参って候と申べし」。その後、六代は西に向かって手を合わ、静かに念仏を唱えて首を伸ばして待った。その姿を見て警固の武士たちが涙を流し、切り手に選ばれた狩野工藤三親俊は討つことが出来ず、その役目を他の者に願いたいと言う。名乗り出る武士もいなかった。その時に「世に美しき若君を、北条殿のきらせたまふぞや」と叫びながら黒染めの衣を着た僧が馬に乗り鞭を揚げて馳せ参じた。頼朝の許し上の御教書を持った文覚であった。『平家物語』で、読者がハラハラする場面である。後に六代は神護寺で預かられ出家をするが、後に鎌倉幕府により処刑されている。「十二の年より三十に余るまでたもちけるは、ひとえに長谷の観音の御利生と聞こえし。それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ(永久に断絶したのである)」。
(写真:京都 東寺)
文覚は、源頼朝が存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、三左衛門事件に連座して源道親源通親に佐渡国へ配流される。通親の死後、建仁二年年(1202年)に許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、翌建仁三年(1203年)]に後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した。他にも没時の諸説があるが、これらが定説とされる。
不可思議な人物であるが『平家物語』に度々現れ出て、他の書物にも記されている。当時の人々に感銘を受けなければ現われる事もないだろう。文覚には、慈円の言うように「仏法興隆の誠が心をとらえたからであろう」人物だったと私は思いたい。