過去に「史書」「史論書」「説話集」「軍記物語」等の古典が成立した。その中で「軍記物語」を捉えると、まず平将門が天慶三年(940)に起こした天慶の乱を描いた『将門紀』が挙げられる。成立年代は諸説あり、星野恒氏は巻末に「天慶三年(940)六月期分」とある事で同二年の将門死去の直後に書かれたとすると唱えたが、早くから疑問が上がり、現在は否定され十一世紀前半から十一世紀後半の平安中期ごろに作成されたとみなしている。作者についても見解の一致が見られない。
ここで興味を持つ事が、平将門は『将門紀』で天慶二年(939)に上野の国鳥で八幡大菩薩より神託を受け「新王」・「新皇」を自称している。ここで、武士・武者・侍の守護神として祀られることになった。関幸彦氏の『「鎌倉」とはなにか』(山川出版)において「八幡神は武家を王朝的秩序から解放し天照神とは異なる世界を作る大きな役割があり武家が守護神として八万神を奉ずる理由であった」としている。
(写真:京都石清水八幡宮)
八幡神は『古事記』『日本書紀』には見られず八幡神の由来として応神天皇とは無関係であった奈良期において『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇と記する記述から、奈良・平安時代にかけて習合されたのが始まりとみられる。その後、八幡神社の祭神は応神天皇であるが、比売神、神功皇后、玉依姫命の三神も祀られ、応神天皇の父である仲哀天皇ともに祀られている神社も多い。また聖武天皇の霊が崩御後八万神と結合したと信じられ、聖武天皇が生前に深く進攻していた仏教の守護神とするために八幡大菩薩の号が生まれたとする説もある。『続日本記』の天平九年(737)の部分に宣命として「広幡乃八幡(やはた)大神と記され、はじめて「八幡」の文字が記述された。
(写真:鎌倉 由比若宮)
「軍記物語」として永承六年(1051)から康平五年(1062)に起こった安部氏の叛乱に対し朝廷から鎮守府将軍に任ぜられた源頼義と安部氏の合戦である前九年の役を描いた『陸奥話記』がある。成立時期は十一世紀の後期、平安後期と考えられ『陸奥物語』『奥州合戦記』とも称されるており、こちらも作者不明とされる。『将門紀』『陸奥話記』が軍記物語の始めであった。ここで、頼義が奥州での勝利のお礼として京都石清水八幡宮の勧請をうけ由比若宮を祀った。これが河内源氏と鎌倉の始まりである。
平安末期の乱・合戦と鎌倉期の合戦を描いた『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』、これらを合わせた四作品を「四部之合戦戦書(「平家物語勘文録」)と称され、武士の勃興期の戦乱を一続きの物として理解する見方が中世からあった事が確認できる。また、保元の乱を「武士ノ世」の始まりとする慈円の『愚管抄』の認識とも一致していた。
『保元物語』は、保元元年(1156)に鳥羽法皇が崩御したことにより譲位問題で苦汁を強いられた崇徳院が挙兵し、後白河天皇との皇位継承争いを軸に、藤原忠通と 藤原頼長の摂関家の対立、源義朝と父為義との源家での対立、平清盛と平忠正との平家での対立により保元の乱が勃発した。この乱を描き、崇徳院の敗退と流罪、以降の平治の乱及び治承寿永の乱の予兆まで記され保元物語がある。作者は何人かの名が挙がっているが、まだ明らかになっていない。また成立期も定かではなく鎌倉初期とされている。
『平治物語』は、平治元年(1159)に後白河法皇の最大の武力勢力であった平清盛が熊野詣に出た隙を狙い、藤原の通憲(信西)と藤原信頼との権力闘争で源義朝が保元の乱での恩賞と平家の圧迫に不満を持っていた事で信頼方に付き、後白河院を内裏に監禁した。この事で起こった平治の乱を描いている。この乱で巧みに平清盛が後白河院を助け出し、信頼、義朝が敗れ敗死した。諸本により内容は異なるが源義平(悪源太義平)の武勇や源義経の母である常盤御膳が老いた母のため清盛のもとへと赴く哀憐の話を含め源氏に対して同情的な内容があるのが特徴である。その後、平家政権の全盛と没落、鎌倉幕府成立まで描いている。成立年は十三世紀半ばの鎌倉中期にとされ、作者は保元物語と同一人物であるとされたが、現在では否定され定かではない。
『平家物語』は、巻頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の断りをあらはす。奢(おご)れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえに)に風の前の塵に同じ。」に記され者の哀れを感じさせる「軍記物語」である。寿永二年(1183)、平家一門は六波羅の五千二百余りを数えた華麗な邸館に火お放ち都落ちして西海に逃れ、その二年後に壇ノ浦でちり果てた。武士階級の台頭の中で平家の栄華と没落を描き、特に治承・寿永の乱においての平家の没落を中心に描いている。前半は平家の悪行と合戦、後半は平家の哀れが語られている。語り本、読み本とあり、琵琶法師の語りがより一層、平家の悲壮感を表した。成立時期は鎌倉初期から中期までには成立したと考えられる。作者については、古来から多くの説があるが、吉田兼好の『徒然草』で信濃前司行長なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたという。
『承久記』は、「慈光寺本」「古活字本」「承久兵乱起」、江戸時代成立の「承久郡物語」が存在する。承久三年(1221)の後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権北条義時能力討伐のために挙兵し、幕府がそれに対し上洛の軍を送った。わが国において初めて朝敵が朝廷に対しての勝利を描き、また戦後処理としての後鳥羽院の隠岐配流等まで描いている。保元の乱で慈円が『愚管抄』記している「武士ノ世」が鎌倉幕府によって完成された軍記物語である。
室町期に入ると『太平記』が著作成立された。後の戦国期に入り各大名、各武家の合戦記録などが残されている。甲斐武田氏の『甲陽軍鑑』は武田信玄。勝よりの合戦を中心とした軍法・刑法などを記して、武田氏の戦略・戦術を記した軍学書であり、軍記物語ではない。平安・鎌倉期の軍記物語は現在、校注本や現代語訳本も出ており、校注本は少し難しい点もあるが時間を掛ければ困難ではなく、それらを読む事で他の人の観照に接しず、自分なりの直接的なその時代、その乱や合戦を見つめることが出来る点、お勧めしたい。新しい発見があるかもしれません。