栄華を誇った平家一門の衰退を記した『平家物語』巻頭での「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の断りをあらはす。奢(おご)れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえに)に風の前の塵に同じ。」に記され、日本人の心に刻まれる一文である。栄華を誇った平家一門の衰退を記し、そして寿永二年(1183)、平家一門は六波羅の五千二百余りを数えた京都六波羅の華麗な邸館に火お放ち都落ちして西海に逃れ、その二年後に壇ノ浦でちり果てた。
私が四十数年前の大学生の頃、吉川英治氏の『新・平家物語』を読んで感動したことを覚えている。現在の新潮文庫版で二十巻との事であるが、記憶は薄いが、四六判で十六巻ほどであったと思う。その内容の豊富さに時間を忘れて読み込んだものだ。その中で西行や慈円、文覚と言った僧にもめぐり逢い、この時代に興味を持った原点だったと思う。そして定年退職後に鎌倉に来て中世の歴史を学ぶ中、昨年の十二月の末から読みだした梶原正昭・山下宏明校注『平家物語』梶原正昭・山下宏明校注、岩波文庫が今月の十七日の日曜日に読み終わった。本文と校注を行き交いながら、またそれ以外に不明な言葉や文法にも辞書等で確認しながら一日、十から二十頁の進み具合であった。その間、他にも三冊の書籍を読んだことで遅くなった。
『平家物語』は、巻第十二と灌頂巻を含めて構成され、巻第一、平家の登場。巻第二、院の側近成親と小松家。巻第三、後白河院と平清盛。巻第四、平家と以仁王。巻第五、福原遷都と頼朝挙兵。巻第六高倉上皇・清盛の死と木曽義仲。巻第七頼朝・義仲の不和と後白河法皇。巻第八で法住寺殿と義仲。巻第九、義経の一の谷攻め。巻第十、重衡と頼盛。巻第十一、義経・頼朝・範頼の不和。巻第十二、大地震と怨霊。灌頂巻建礼門院と物語の構成で平家の栄華から衰退を記し、建礼門院の京都大原寂光寺での崩御で締めくくられている。
戦記物語であるため、平家の成り立ちと栄華、合戦記述と平家の衰退、そして平家の滅亡とその後の中で、特に巻第十二の中の平重盛の孫、維盛の子・十二歳の六代御前京(平高清)のが大覚寺の菖蒲谷にいる事をある女房が六波羅に報せ、隠れていた維盛の妻・北方と平維盛の遺児・六代御前が発見される。文覚は、十二歳の六代午前を「あはれ」に思い、頼朝に直接助命嘆願を行い、許し文を受け取りに鎌倉へ行くが、その期限が過ぎて、北条時政に警護され東国へ下った。駿河国の千本の松原まで来ると、時政は、「たとえ誰がお願いしても鎌倉殿の心は変わるまい」と思い、その地で六代を斬首する事になる。六代は、従者の斎藤五・斎藤六兄弟を呼び寄せ「決して途中で切られたと言ってはならぬ、ありのままの私の最後の様子を聞かれて母上があまりにもお嘆きになるようだと私も草葉の陰で心中辛い思いをし、それが来世の極楽往生の妨げになるであろう」、そして「鎌倉まで送りつけて参って候と申べし」。
その後、六代は西に向かって手を合わ、静かに念仏を唱えて首を伸ばして待った。その姿を見て警固の武士たちが涙を流し、切り手に選ばれた狩野工藤三親俊は討つことが出来ず、その役目を他の者に願いたいと言う。名乗り出る武士もいなかった。その時に「世に美しき若君を、北条殿のきらせたまふぞや」と叫びながら黒染めの衣を着た僧が馬に乗り鞭を揚げて馳せ参じた。頼朝の許し上の御教書を持った文覚であった。『平家物語』で、読者がハラハラする場面である。後に六代は神護寺で預かられ出家をして妙覚と名を与えられるが、建久十年(1199)一月十三日頼朝が死去し文覚も「三左衛門事件」で佐渡に流罪になる。妙覚(六代)も同年二月五日、鎌倉幕府により田越川で処刑されたとされる。「十二の年より三十に余るまでたもちけるは、ひとえに長谷の観音の御利生と聞こえし。それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ(永久に断絶したのである)」。また、妙覚(六代)の没年、捕縛年、処刑年、処刑場所等は定かではないが鎌倉市の隣の逗子市の葉山(逗子市桜山八丁目二・一・七に)六代御前の墓として残されている。
灌頂巻の安徳帝の母建礼門院徳子の大原寂光院で先帝安徳天皇ご霊魂と平家一門の亡き御魂が、正しい悟りを開き、速やかに仏果を得られることを願い、西に向かい手を合わせ「過去聖霊、一仏浄土へ」と阿弥陀仏のおられる極楽浄土へ生まれ変われますように祈られる姿が悲しさを思わさせる。
『平家物語』の作者としては、『徒然草』第二百二十六段に記されている。後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉(ほまれ)れありけるが楽府(がくふ)の御論義(みろんぎ)番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名を付きにけるを、心優しき事にして、学問を捨てて遁世したりけるを慈鎮和尚、一芸ある者をば下部までも召し置いて、不便にさせた給ひければ、この信濃入道の扶持(ふち)し給ひけり」。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)と云ひける盲目に教えて語らせけり。さて、山門の事をことにゆゆしく書けり。九朗判官の事は、くわしく知りて書きのせたり。蒲冠者(かばのくわんじゃ)の事は、よく知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。」
「後鳥羽院の治世の時、信濃前司行長が学問に通じているとという評判が高かったが、漢詩の『白氏文集(はくしもんじゅう)』巻三の「新学府」と題する五十編の詩をの問題点につき御膳で討議する一員に召された。その場で「新学府」の巻頭の詩の題、武士の持つ暴力をおさえ、戦をやめ、国家の大を保ち、いさおしをたて、民を安じ、万民をやわらげ、財を豊にすると言う「七徳」の舞を二つ忘れてしまった。人々が五徳の弱輩者とあだ名をつけられ情けないと思い学問を捨てて出家しまった。大僧正慈円が一芸ある者を下僕のはてまで召しかかえて、不便にめんどうを見ておられたのでこの信濃入道に米を与えお世話をなさった。この行長入道は、平家物語を作り、生仏と云う盲人に教えて語らせた。それで比叡山延暦寺のことを立派に書いている。。九朗判官・源義経の事は詳しく知っていたので記載し、蒲冠者・源範頼の事はよく知らなかったので多くの物を書き残している。武士の事・武芸の事は、生仏が東国の者であったので武士に問い聞いてそれを行長に書かせた。この生仏の生まれつきの発音を、今の琵琶法師は学んだ。」
琵琶法師は、琵琶に会わせて『平家物語』を語った盲僧で、鎌倉末期から室町初期にかけて平家琵琶の全盛の時代であった。しかし、いつまでも日本人の心に「あはれ」を刻み付けるのだろう。