鎌倉散策 京都六波羅 六、六原 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 明治二年(1869)に六波羅密寺に隣接する六波羅探題跡地に六原小学校が立てられた。平成二十三年(2011)には学道減少により五小学校が統合され、現在京都市立開睛となっている。京都でもこの六波羅周辺は観光業が盛んで、住居を別にされていることが多く、この六波羅のみが京都の庶民の風情を残しているため、六原小学校に統合された。現在、東山区五条大路大和大路上ル東の地に変わり、六原の名称は六波羅蜜寺のみを残すことになった。どこの地域でも人口減少の過疎化に伴い市町村が統合され、以前の地域の名称が無くなっていく。六原は、六波羅蜜寺が残る分、まだその名称と逸話・伝承が残されるが、全く消えていく事も有り、これで良いのかと疑問を残す。

 

 昭和四十一年に六波羅蜜寺本堂が解体修理され、それに伴う発掘調査で、全体で数万個とされる泥塔が発見された。現在の本堂須弥壇下の南北八・八メートル、東西二・三メートルに楕円形状態で埋め込まれ暑さ四十センチメートルに堆積していた。報告書によると「胎土の清涼なものと粗悪なものがありさらに焼成が非常に悪くほとんど泥土化したものが多数あった。泥塔の総数は正確にはわからないが泥土化したものをむくめると数万個に及ぶものと推定される」と報告されている。

 

(写真:泥塔 淡交社 古寺巡礼京都5『六波羅蜜寺』より引用)

 平安時代後期には小塔供養が、しばしば行われたと見たれ、小塔の出土例は他にも見られる。この様な泥塔は、貴族や庶民が罪障消滅、息災延命を祈願して埋めたものであり、『百練抄』に保安三年(1122)の法勝寺小塔院にて「供養五寸塔、三十万基、有舞楽、為希代法会」とあり、建仁三年(1203)には、後鳥羽上皇の八万四千基の消灯供養を行っている。『今昔物語集』の「京に住む女人、地蔵の助けにより手読みがヘリを得たる事」二十八の末尾に、「その後、雲林寺の僧を語らひて泥塔を造り懺悔を行はしめけり」とある。庶民の寺であった六波羅蜜寺の泥塔はおそらく貧しい洛内・洛外の人の切実な願いもこめられていた。平安期の中山忠親の日記『山槐記(さんかいき)』には中宮得子懐妊の法を聞き、平家が当時において男子出産、安産祈願として泥塔を作成したと記載されている。五輪塔形の泥塔は珍しく、平安時代の仏教民俗を考えるうえで高い評価を有し、これらの出土品は重要民俗文化財として登録された。

 

(写真:平清盛坐像 淡交社 古寺巡礼京都5『六波羅蜜寺』より引用)

 六波羅蜜寺では、通常宝物館にて空也上人立像、平清盛坐像、地蔵菩薩立像、弘法大師像、運慶坐像、四天王立像などの重要文化財を拝観することが出来るが、現在、特別展「空也上人と六波羅蜜寺」と題し令和四年三月一日から五月八日まで東京国立博物館で開催されているために拝観することが出来なかった。平清盛坐像は、僧形(そうぎょう)の坐像で、造主は平清盛と伝えられている。胸元で経巻を開きながら、目は経巻を離れ少し上目づかいで、何事かを聞く、また思考しているようにも窺える。その迫力のある表情と動きのある衣の表現は優れた慶派仏師の作と推され、鎌倉前期の清盛没後の意像である。空也上人立像と平清盛坐像の慶派の像と平安期に作成された地蔵菩薩立像、四天王立像などの比較を楽しむことが出来る。

 

 六原から東に進むと南北の東大路通りがあり、これを渡ると清水坂、八坂通、また五条坂から清水寺に至る。清水寺は、京都でも格別の観光地であり、趣のある寺院だが、平日でも観光客は多く、その人出に辟易する。今回、久しぶりに清水寺に赴いたが、春休みの学生たちが参道を埋めつくしていた。写真を鳥に一回りし、三年坂、二年坂を通り高台寺の石塀通りに入ると静かな空間に入った気になる。何時も行く喫茶店で、コーヒーを飲みながら、一時の静かな時間を過ごした。 ―了