栄華を誇った平家一門の衰退を記した『平家物語』で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の断りをあらはす。奢(おご)れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえに)に風の前の塵に同じ。」に記され、日本人の心に刻まれている。そして、寿永二年(1183)、平家一門は六波羅の五千二百余りを数えた華麗な邸館に火お放ち都落ちして西海に逃れ、その二年後に壇ノ浦でちり果てた。
この時の放火で奇跡的に六波羅蜜寺は焼失を免れている。この六波羅に新たに館を新造したのが、清盛が炎のような高熱にさらされ臨終の間際に「今生の望一言ものこる処なし、ただし思ひおく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸をみざりつるこそやすからね。…やがて打手をつかわし、頼朝が頸をはねて、わが墓のまえに懸けるべし。それぞくようにてあらんずる」と言ったとされ、治承・寿永の乱に勝利した源頼朝であった。平治の乱後、平清盛の継母・池禅尼が梟首される頼朝を清盛に懇願し流罪とし、命を救っている。清盛にとっては、いかに悔やまれる思いだった事かと窺われ、その池禅尼の子・平頼盛の屋敷跡に新邸を構えた。頼朝の最初の上洛時に北条時政が御家人の統率、洛中の警護・朝廷と鎌倉幕府の間の連絡の任に当たる京都守護として就いている。北条時政は京都に拠点がなかったため六波羅に館を構え、その館を京都守護の庁舎とし、また東国の御家人達の宿舎が築かれた。頼朝は六条堀川に河内源氏代々の館があり、時政以降の京都守護は公家出身者や京都在住の長い武士が多かったため自邸を庁舎としている。
(写真:京都文化博物館『承久記絵巻』引用)
承久三年(1221)の承久の乱の後、勝利した幕府がそれまでの京都守護を改変し、京都六波羅の北と南に幕府出先機関として設置した。北条義時の嫡子・泰時が北方、弟・時房が南方に就いた。戦後処理として、後鳥羽院に加担した公卿・武士等の処罰と、その所領を没収し御家人に恩賞として再分配され、それまで幕府の支配下でなかった西国の荘園に地頭を置き幕府の権限が及ぶようになる。その御家人の統率と、朝廷の動きを管理・監視を行うことを目的とした。北方・南方を有るすが、比較すると北側の方が優位であり、後の執権・連署に多数輩出している。後に六波羅探題は西国で起きた国司と地頭などの紛争を処理する裁判機能京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取次等を行うようになった。文永の役の翌年の健治元年(1275)には御家人の処罰の権限と裁判制度が充実され、機能をさらに強化している。
六波羅探題は当初から京都の治安維持には検非違使の役割とし、六波羅の職務の権限外と考えていたようだが、洛中の軍事貴族を解体し、北面武士の軍事力が低下したため京都の治安が悪化する。文福元年(1233)八月十三日に出された鎌倉幕府追加法では関白九条教実と北条重時の協議で洛中の強盗・殺害人については六波羅も検非違使庁と共に沙汰を行うこととした。文暦二年(1235)七月二十三日に出された追加法では武士が関与しない洛中の刃傷・殺害については検非違使の沙汰としている。武士が関与しない物は検非違使の沙汰とし、洛中での警護に関しては基本的に朝廷及び検非違使の責任とする原則を示した。六波羅探題探題と呼ばれた初見が鎌倉末期で、それまでは単に六波羅と呼ばれている。
鎌倉期の六波羅、六波羅探題は、鎌倉期においても幾度も時代を変化させる政変に巻き込まれていた。
元久二年七月十九日、北条時政の後妻牧の方が娘婿・平賀朝雅を関東の将軍にして現将軍家(源実朝)を滅ぼそうとする事件が露見し、時政と牧の方は伊豆に蟄居・配流。同二十七日、京にいた平賀朝雅は謀殺されている。
承久三年(1221)五月十五日、京都守護・伊賀季光が後鳥羽院の招集した軍勢が一千余騎により襲撃され、伊賀季光は、政所ノ太郎・治部次郎ら精鋭の武士二十九騎と光季と十四歳の次男光綱親子合わせ三十一騎で奮戦するが誅殺されている。配下の武士に官軍に囲まれた京から抜け出させ、鎌倉へ早急にこの知らせを届けた。
文永九年(1272)二月十五日、六波羅探題南方に就いていた北条時宗の兄・時輔が鎌倉からの命により北方の北条義宗に討たれた。この二月騒動で、蒙古襲来に対し得宗家北条時宗の執権としての反得宗勢力を封殺し、時宗を中心とした対蒙古戦への権力集中であったとされる。
文永九年の二月騒動以降、空職であった六波羅探題南方に健治元年(1275)に就いた北条時国が弘安七年(1284)四月に北条時宗が没し、二月後の六月に悪行を理由に羅免され常陸国に配流後誅殺されている。この背景には、時宗没後、幕府体制に対し安達泰盛と得宗家管領・平頼綱美対立が関係したとされ、頼綱派による流刑であったとされ、翌弘安八年(1285)に起こる霜月騒動が起こった。
鎌倉幕府は、元寇により御家人たちの恩賞に行き詰まり、改善策等の徳政を発するが事態の解決には至らなかった。御家人の不満と「悪党」の出現により鎌倉幕府の財政的な問題が重なり、軍事力低下に伴い統制が困難となる。この情勢において後醍醐天皇は討幕計画を立て元弘の乱が勃発した。元弘三年(1333)一月には、京都周辺で討幕軍が蜂起し六波羅から軍勢を派兵するが討幕軍は幕府軍を撃破する。幕府方であった足利尊氏が丹波篠山で後醍醐天皇方に付く決意を固め、京に帰り六波羅を攻撃した。同年五月七日南北の両探題は六波羅を脱失して六波羅は滅亡する。そして、同五月二十二日、僅か二週間後に鎌倉幕府は滅亡した。
鎌倉幕府滅亡後に室町期に入ると室町幕府が京都に置かれたため、この六波羅は、その役割を終えて庶民の生活の地としてもどる。六原の名に代わり鳥辺野墓地の入り口として現世とあの世の境と考えられ、「六道の辻」として今も盂蘭盆の日には多くの人で賑わう。 ―続く