六原の名称は、平安初期から中期にかけて鳥辺野の一地域とみなされ、吉田兼好の『徒然草』にも鳥辺山の記載がのこされており、中期には、六道の辻や六原の名が現れ、空也上人が鳥辺野入り口にあたる六原の地に十一面観音像を本尊として寺の建設を発願し、村上天皇の勅許を得、遷化された。『本朝文随(本朝文随)』や源為憲の『空也誄』に残されている。空也の没後五年後の貞元二年(977)空也の行程注進が「西光寺」を「六波羅蜜寺」と改め伽藍の造営に乗り出し、天台別院とした。この六波羅蜜寺の改名によりこの地を六波羅と呼ばれるようになったと考える。北は松原通り、南は六条通り、東は東大路、西は大和大路の南北六百メートル、東西四百メートルの地であった。
平安時代末期に摂関政治が衰え、天皇が皇位を後継者に譲り上皇となり天皇の代わりに直接政務を行う院政期に入る。伊勢平氏である平正盛が白河上皇に伊賀の所領を寄進して重用され、検非違使・追補士として台頭するようになった。仁元年(1108)に源義親が反乱を起こし、義親追討の宣旨が出るが、義親の父源義家が義親追討に躊躇したため平正盛が変わり追討し、乱を鎮圧した。その功により但馬守に叙任され、天永元年(1110)丹後の守、永久元年(1113)備前守を務めた。勇猛な義親を討ったとされるが、後に義親を名乗る人物が幾度も現れ歴史上に痕跡を残しており、中御門宗忠の日記『中右記』において疑問があった事が記載されている。平正盛は、一族のために供養堂を六波羅に建立している。宗忠の子…平忠盛は、北面の武士・追討師として白河院生・鳥羽院制の武力的支柱の役割を果たした。また、諸国の受領を歴任し日宋貿易に従事し膨大な富を築き、伊勢平氏で初めて昇殿を赦されている。『平家物語』では武士が殿上人となった事に他の公卿に嫉み買い闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔を貼った木刀を帯刀し、公卿たちを脅す機転によって防いだ。昇殿の際は帯刀を禁じられているが、弓矢を似て身を立てるのが武士の思慮、刀が銀箔の木刀であった事で、咎は赦され「且(かつう)は武士の郎等のならひなり」と忠盛の武人としての振る舞いに重ねて称賛に価するとされた。
平忠盛は軍事貴族の伊勢平氏であり、伊勢国を本拠としていたために京都から伊勢や東国への街道が繋がるために伊勢平氏の邸宅群として「六波羅館」に置き、平家の拠点とした。また、後白河法皇が六波羅の南に法住殿(三十三間堂廻り町にあ天台宗の寺院)を造営した事で、院御所警備を職務とする軍事貴族にとって六波羅の地を選定した要因でもあったとされる。平忠盛・清盛親子は、六波羅の泉殿を居館とし、平氏政権の中心地となった。保元・平治の乱を経て、より一層の平家の栄華を築いていく。仁安元年(1167)二月に清盛は太政大臣に上り詰めたが、わずか三ヶ月で辞任し宋貿易の港建設による福原開拓に従事するため政界からは表向きに引退した。そして後継を嫡子・重盛に継がしている。平家一門は全国に五百余りの庄園を保有し、以前に増す日宋貿易により膨大な財貨を手にしていた。『平家物語』禿髪(かぶろ)では義弟・平時忠が「此の一門にあらざる人は皆人非人なるべし」と記され、「皆人非人」は人並み以下の意をさすが、「平家にあらずんば人にあらず」という慣用句になっている。
平清盛の時代には、後に清盛は洛中の八条一坊に「西八条邸」(平時子邸)を造営して政治の拠点を移した。嘉応元年(1169)清盛が福原に移ると、平家一門の軍事基盤の拠点は六波羅館に残し居館である泉殿は平家棟梁として重盛が受け継いでいる。『平家物語』では、清盛が実権を握った際、「禿、禿童(かぶろ、かむろ)と呼ばれた多数の禿の頭髪の童子を洛内に放ち、市井の情報、や平家に対する批判や謀議の情報などを集め密告させていたと記されており、この六波羅から洛内に駆け走っていた風景が浮かび上がる。
安元二年(1176)に清盛の継室・時子の妹・賢俊門院の死をきっかけに、清盛の勢力の伸長に対して、後白河法皇を始めとする院政勢力が次第に反感を示すようになる。治承元年(1177)六月鹿ヶ谷の陰謀、治承三年に関白・近衛基実に嫁がせていた盛子が死に、基実の遺領を有していた盛子の荘園を後白河法皇が無断で没収してしまった。続いて平家棟梁となった重盛が四十二歳で病死し、重盛は後白河法皇に信任され忠義を尽くし忠臣とされた平家の棟梁であったにもかかわらず、重盛の知行国であった越後国を没収した。さらに法皇は二十歳になる近衛基通(室は清盛女・完子)を差し置き八歳の松殿師家を権中納言に任じる。この人事により摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は激怒した。
同年十一月十四日、清盛は、軍勢を率いて福原から上洛し、治承三年の政変を起こす。松殿基房・師家親子、藤原師長等の反平氏に対する公卿・院近臣・検非違使等三十九名を解任し、変わって親平家の公卿を任官させた。後白河法皇は清盛に許しを請うが、十一月二十日に鳥羽殿に幽閉し、後白河院制を停止させた。院政停止後、高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人が携わったが、政治経験が未熟のため清盛が表に出ざるを得なかった。治承四年(1180)二月二十一日、高倉天皇は第一皇子を践祚し四月二十二日安徳天皇が三歳で即位しる即位の年に清盛手動で遷都が計画され福原行幸が行われた。 寿永二年(1183)、源義仲の入京に伴い平宗盛以下平家一門は三種の神器と共に都落ちし、この六波羅を離れ、二度と戻る事は無かった。
現在、特別展「空也上人と六波羅蜜寺」と題し令和四年三月一日から五月八日まで東京国立博物館で開催されている。