鎌倉散策 京都六波羅 三、六波羅蜜寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 この六波羅で有名な寺院がもう一つあり、それが六波羅蜜寺である。創建は六波羅蜜寺の前身西光寺が平安中期の天暦五年(951)とされ、開山は空也上人、開基は村上天皇で醍醐天皇の第十四皇子である。真言宗智山派の寺院で山号は補陀洛山、院号は普門院。本尊は十一面観世音菩薩(国宝)。西国三十三所第十七番札所である。六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属するが、空也上人の没後に中興した中信以降、桃山時代まで天台宗であった。俗に天台宗空也派(天台宗内では公認された流派ではない)と称する一派が祖と仰いでいるが、空也自身は複数宗派とかかわりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法流を直接伝える宗派は組織されなかった。空也を開山とする寺院は天台宗に限らず在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺の前身西光寺のみである。

 

 村上天皇は、父・後醍醐帝の第十四皇子で、母が中宮で藤原穏子であるため重んじられていた。同母兄の十一皇子の寛明親王が延長八年(930)に後醍醐帝の危篤より九月二十二日践祚された。後醍醐帝は、その七日後に崩御され、十一月二十二日に即位し朱雀天皇となる。朱雀帝の治世中に天慶三年(940)に天慶の乱がおこり藤原忠文を征東将軍に送り、藤原秀郷の手により平将門は討たれ、翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ乱を収束させた。また富士山の噴火や地震・洪水などの災害や異変の多い時代であった。朱雀帝は病弱であったために入内した女御は二人で皇子女に恵まれず、天慶九年(946)四月二十日に朱雀帝二十四歳で同母弟の成明親王(後の村上天皇)に譲位し、太上天皇(上位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号)となる。天暦六年(952)に出家して仁和寺に入り同年三十歳で崩御した。

 

(ウィキペディアより引用 村上天皇像、永平寺蔵)

 村上天皇の治世は天慶の乱後で朝廷の財政が窮迫し倹約に努めている。天暦五年(951)に「後撰和歌集』の編纂を下し、天徳四年(960)三月に内裏和歌会を催行。また『清涼記』の著者と伝えられている。事や琵琶などの楽器にも精通し平安文化を開花させた天皇であった。即位後、藤原忠平を関白に於いていたが忠平が没すると以後摂関を置かずに天皇親政の形式をとる。以後、村上治政として「天暦の治」と呼ばれる理想の政治が行われたとして聖代視されるが、実質は左大臣藤原実頼が政務を行っている。そして反面外戚政治の土台が一段と固められた。なお、皇子具平親王の末裔は「村上源氏」として以後、宮廷政治に大きな影響力を持つようになる。

 

 空也上人は、没年の記録から見て延喜三年(903)頃の生まれとされる。諸説あるが寺伝により後醍醐天皇の第二皇子として生まれたと残されている。また上人自身は父母の事も郷里の事も一切口にしなかったとされ、真偽は定かではない。

 高橋修三氏の『六波羅蜜寺』の「六波羅蜜寺を尋ねて」に空也上人は、若いころから優婆塞(うばそく:出家せず世俗・在俗の生活を営みながら仏道に帰依する者)として諸国を苦修連行しながら巡ったとされる。道を直し、川に橋をかけ、野に捨てられた屍があれば阿弥陀仏を称名して供養するという生活を行い、二十一歳頃に尾張国分寺にて出家し、「沙弥(しゃみ)空也」と名乗り、奥州や四国などで自らの修業と民の教化(きょうげ)を重ね天慶元年(938)に京都に上った。京都でも道を修復し、橋を造り、井戸を堀りながら、病人や貧者に施しをなし、さらに都の市に立って称名念仏を説いた。その姿は、粗末な衣を身にまとい、左手に鹿角をかぶせた杖、右手に撞木(しゅもく:鐘を打ち鳴らす丁字型の棒)を持って胸に下げた鐘を打ちながら阿弥陀仏の名号を唱える空也上人立像(重要文化財)に見事に写し出されている。これはまた、踊躍(ゆやく)念仏のありさまを伝えてもいる。都人は、そんな空也上人を「市聖(いちひじり)」、「阿弥陀聖」と呼んで敬慕したという。空也上人が市の門に書き付けたという歌が『捨遺和歌集』に残されている。

 「ひとたびも南無阿弥陀仏という人の蓮(はらす)の上にのぼらぬはなし」

 京の都には七条大路沿いと東と西の市が設けられていた。「市聖」と呼ばれた空也上人に相ふさわしく、庶民が生活の必需品を求めてごったかえす市の門に「ひたすら念仏せよ、さすれば往生すること疑いなし」と唱導する歌を書き付けたのである」。

 

 天暦二年(948)に比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受けるが、空也上人は超宗派的立場を保ち、「空也」をなのる。天台宗よりも奈良仏教界、特に思想的には三論宗(さんろんしゅう:南都六宗の一つ)との係わりが強かったという説もある。天暦四年(950)に金字大般若経書写を発願し貴族や民衆からの寄付を募り十四年後の応和三年(963)書写を完成し鴨川河原で大々的な金字般若経供養会を修する。天暦五年(951)には十一面観音像及び梵天・帝釈天像、四天王像(四天王像一躯を除き六波羅蜜寺に現存)を立像する。

 

この年に畿内に悪疫がはやり鴨川の河原や都大路に捨てられた屍にあふれたという。この惨状を目にした空也上人は悪疫退散を祈願し、身の丈一丈の金色の観世音菩薩像を造り、それを車の乗せ洛中洛外をめぐったとされる。また、青竹を八葉の薄辺に割って点てた茶に梅干しと茗荷を加えて天皇を始め疫病に慄く人々にふるまったという。それが今も六波羅蜜寺で正月の三が日にふるまわれる皇服茶(おうぶくちゃ)の始まりであり、これにより悪疫が収束したと伝えられている。天皇から庶民に至るまで空也上人の深い信頼と敬慕が募り、上人が鳥辺野入り口にあたる六原の地に十一面観音像を本尊として寺の建設を発願し、村上天皇の勅許を得、遷化された。その年が 天禄三年(972))九月十一日で、この年に空也上人は東山西光寺(現在の六波羅蜜寺)において七十歳で示寂している。

  

 ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏は、我が国において初めて実践され、浄土教・念仏信仰の先駆けであり、門弟として高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」先駆者である。また、摂関家から一般大衆に至るまで幅広い層で世俗・在俗の者に念仏信仰を広めたことが特徴で、空也流念仏進聖は鎌倉期の鎌倉新仏教の浄土信仰を醸成したとされ、一遍に多大な影響を与えている。