鎌倉散策 令和四年鎌倉「海棠の寺」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 今年の鎌倉の天候は、晴れ。三月下旬から四月上旬にかけて冷たい雨が降り、なかなか晴れた天候に恵まれない。四月二日、久々の安定した晴れの天気と言うことで、今年も海棠の開花状況も見るために、扇ガ谷の海蔵寺、大町の妙本寺、長谷の光則寺に出かけた。 

 鎌倉では、桜が満開の時期に入ると海棠が咲き始め、桜も美しいが、海棠の魅力の桃色に咲く花びらは、その美しさを教授し、この時期を一層楽しませてくれる。海棠は、美しい桃色の花びらが楊貴妃の美しさを伝えるように咲く。正式名称「花海棠」ハナカイドウ、バラ科リンゴ属の木で桜が咲き終わった頃の四月から五月初旬にかけて咲く。花言葉は「艶麗」「温和」「美人の眠り」で、楊貴妃にまつわる話から由来され「睡れる花」として、美人の代名詞とも言われる。皇帝が、ほろ酔いで眠そうにしている楊貴妃を見て「海棠の眠り未だ足りず」と言ったとの逸話がある。海棠の「棠」は梨を意味し、海を渡ってきた梨という意味でつけられた。昨年は、三月二十七日土曜日に海蔵寺、光則寺、妙本寺に出かけ五分咲きに近かったことを確認している。

 

 海蔵寺のある扇ヶ谷のあたりは、閑静な住宅地であり、鎌倉らしい個性的な住宅が並び、途中に左に折れると化粧坂切通に行く。道をまっすぐ進むと、この奥が臨済宗建長寺派の扇谷山海蔵寺であり、周りを山で覆おう鎌倉特有の山に囲まれる谷が、鎌倉十井の「底脱ノ井」や「十六ノ井」が今も綺麗な水を湧き出させている地である。

海蔵寺は建長五年(1253)、五代将軍・宗尊親王の命で藤原仲能が本願主となり、七堂伽藍を持つ規模の大きい真言宗の寺があったと伝えられているが、鎌倉幕府滅亡時にその多くが焼失した。その後、海蔵寺は、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定がその真言宗の寺であった跡地に心昭空外を招いて再建され、扇ガ谷上杉氏の菩提寺となり庇護を受けて栄えた。今年の海蔵寺の海棠は、以前よりも小ぶりになったように感じる。海棠の咲き具合は五分咲き程度であるが、桃色の花びらが日差しを受け、美しさを表わしていた。今小路を通り、鎌倉駅西口から江ノ電に乗り、長谷へと向かう。明日も雨の予報で、今日は久しぶりの良い天気のため観光客が多かった。

 

 光則寺は日蓮宗の寺院で開基は宿屋光則(やどやみつのり)で、開山は日蓮聖人の弟子の日郎上人である。宗派:日蓮宗。 山号寺号:行時山光則寺。 創建:文永十一年(1274)。 開山:日郎上人。 開基:宿屋光則。 寺宝:万治四年(1661)銘の木造日蓮上人坐像、寛文十二年(1673)伝日郎入牢七人衆像、天保十五年(1844)大梅院尼坐像等。大梅院日進は江戸時代、光則寺の再建に槌力した。宿屋光則は五代執権北条時頼の家臣で父宿屋行時と同じく仕えていた。北条時頼の臨終の際、最後の看病を許されたのが得宗被官七人の中の一人である。得宗被官は将軍に一般的に仕える御家人と北条氏直属の家人で、御内人(みうちびと)、御内之仁と言う。

 

 

 

光則寺の海棠は六七分咲で、海棠の木々の多さでは鎌倉で一番多いと思う。こちらでも桃色の花びらが美しく、昨年より色合いが濃いように思えた。海蔵寺、光則寺は何時もよりも観光客は多いが、それなりに海棠を見て楽しむ事が出来た。何時もなら海岸通りは歩くのだが、今日は長谷観音からからバスに乗り下馬四つ角で降り妙本寺に向かった。

 

 滑川にかかる夷橋を渡り、妙本寺の総門を過ぎ、祇園山にかかる杉や檜の鬱蒼とした参道を行く。鎌倉駅の周辺の人出に比べ、ここは本当に静かであり、私の大好きな場所である。しかし、こ海棠を求めて、アマチュアカメラマンの人々や結婚式の写真の前撮りなど多くいつもと違う妙本寺になっていた。山門に続く階段を登り、朱色の山門をくぐると手前に桜、本堂近くに海棠が見事に咲き始めていた。日蓮上人像が桜で彩られ、本堂手前と比企家の墓と袖塚の間に海棠の木が植えられ六七分咲き程度になっていた。祖師堂で手を合わせ、そこから境内を見渡しながら見る海棠も美しい。祖師堂前の海棠は、評論家小林秀雄と中原中也が女性を巡り中違いしていたが、この海棠の前で和解したという。

 

 長興山妙本寺の宗派は日蓮宗で、開山は日蓮、開基は比企大学三郎熊本であり、創建は文応元年(1260)である(詳細は平成三十一年七月二日の「鎌倉散策 妙本寺」で記載している)。大きな杉林に比企ヶ谷があり、「杉の寺」として有名であり、一つ通りを離れるだけで静寂間が漂う私の大好きな寺院である。平成三十一年の九月の台風十五号により、杉林の大木が何本も倒れ無残な災害の跡を残したが、今はかなり整備され、元に戻りつつあり、気持ちの良い美しい寺院である。

 

 源頼朝の乳母が比企禅尼は蔵の国、比企郡の豪族の比企達宗の妻で頼朝が保元の乱後、伊豆に流され、生活に必要な物資を送り続けたのが比企禅尼である。それを届けていたのが養子の比企能員であり、頼朝挙兵時から臣下として従った。後、能員は、二代将軍頼家の子一幡の外祖父として幕政に貢献する。建仁二年(1203)二代将軍頼家が重病に陥ると、その遺領分与について北条時政と争い、「比企の乱」が起こる。能員は時政邸で暗殺され、比企の屋敷に火をかけられ、比企一族の者と幼い一幡(六歳)、は自刃した。この妙本寺は北条時政に攻め滅ぼされた。一族滅亡後も儒官として幕府に支えていた能員の末子、比企大学三郎熊本が、後に日蓮宗に帰依し、文応元年(1260)、日蓮(日郎とも)を開山として創建されたという。長興山妙本寺の名の長興は能員の法号、妙本は室の法号にちなむ。この寺院には比企家の墓、一幡の袖塚、若狭の局の蛇苦止堂の遺跡が悲しい話を物語せる。比企の乱にて北条一族に滅ぼされた比企家の墓と一幡袖塚の間に立つ海棠は、まだ小さいが、鎌倉の悲しい物語に鎮魂の花を添えているようだ。そう感じながら妙本寺を後にした。

 今年の鎌倉の海棠は色好きも良く、臨済宗の海蔵寺は、後十日ほどは咲くだろう。日蓮宗の寺院である妙本寺、光則寺の海棠は、後、一週間くらいは咲き続けると思う。