大阪の自宅には、三ヶ月に一度くらい帰っている。本年一月下旬に帰阪の予定だったがオミクロン株が猛威をふるい、考えられない増加数を示した為に取り止めにした。二月に三度目のワクチンを接種し、蔓延防止措置法が解除され、三月二十二日の水曜日に五か月ぶりに大阪の自宅に戻る。帰阪すると奈良や京都に出向き中世史に残された史跡を訪ね歩くことにしている。今回は京都の六波羅を尋ねた。
六波羅は現在の四条南座の大和大路通りを南に下り建仁寺東南の東山警察署を東に進むと西福寺、六波羅蜜寺、珍皇寺がある六波羅に行く。ただ大和大路通りは、自動車が行き交い混雑し、京都らしさを感じられないため、宮川町を歩き松原通りを一筋超えて六波羅小学校・洛東中学を回って六波羅蜜寺に行く。京都には花街として八坂神社の門前「祇園甲部」「祇園東」、鴨川沿いに「先斗町」「宮川町」、北野天満宮近辺に「上七軒」の五花街があり宮川町はそのひとつである。宮川町の子の通りも置屋さん、お茶屋さん、料亭等の京都らしい長屋が並ぶ通りであり、近年は、料亭での昼の食事も出来、少しばかり京都を楽しむことが出来る。花見小路とは違い、まだまだこちらに来られる観光者も少ないため京都の雰囲気を楽しみ、格安のお昼をいただける。
この日は、「光琳」というお店に入りビールとお刺身天ぷら定食をいただき、京風の御膳に満足した。また驚いたのがコロナ禍のためか、格安のお値段であった事である。この日は、京おどりが四月から始められるため、舞妓さんや芸子さんがお茶屋さんに挨拶周りをしている風景に何度か出くわした。
この宮川町界隈は古代から洛外であり、京都の碁盤から外れた地であった。古代・中世において鴨川の水害で被害が出た地域である。江戸時代になり宮川町通りが開通し、鴨川護岸の石積みが完成して開け、お茶屋として許可が下りたのが宝暦元年(1751)だった。この通りを東に進むと緩やかな坂になっており、平安中期に水害を免れる地に建立された六波羅蜜寺、六道珍皇寺がある。中世史を学ぶ上で、六波羅、六波羅館、六波羅探題等がどのような役割を担い時代とともに変遷していったかを注視したい。 ―続く
(地図:六波羅蜜寺住職 川崎純性、作家 高城修二 淡交社 古寺巡礼京都『六波羅蜜寺』引用)