元仁元年(1224)十二月四日条、「改元の詔書が(鎌倉に)到来した。先月二十日に貞応三年を改めて元仁元年となったという。式部大輔(菅原)為永卿が(元号を)選び、詔書はその子息(菅原)長貞卿が書いたという。」
同十四日条、「晴れ。夜になって若君(三寅、後の頼経)が武州(北条泰時)の御邸にて出かけられた。女房が皆お供をした。(泰時)のもてなしは殊に美を尽くしたものであったという。これは来る十五日の立春節に(若君が)御方違(おんかたたがえ)のため(泰時邸に)入られるがその日の日没で、初めてひられるには支障があるため、今後、わざわざ初めて出かけられたという。
同十五日条、「若君(三寅)が御所に帰られた。武州(北条泰時)が引き出物を献上され、御剣は駿河の守(北条重時)が持参し、御馬は三浦駿河二郎泰村・同四郎家村が引いたという。」
同十七日条、「武州(北条泰時)が建立している堂の在所は、現在の御館から東方に当たる。そして立春の後は王相(おうそう)方となり、(泰時は)その方向から方違(かたたがえ)するべきであるが、節分の夜は若君(三寅)が御方違のため入られるので、思い悩まれ(安倍)知輔朝臣を招きこのことを相談された。知輔が言った。「仮にその堂を他人に譲渡して完成させるのがよいでしょう。御願寺などについてこのような例はたいそう多くあります」。(泰時は)なお不審が解けなかったため、重ねて(安倍)親職に尋ねられたところ、「追善の事について他人に譲られることは本来の在り方ではありません。(泰時が)御方違できないのであればしばらく工事を中止して夏以後に完成させるのがよいでしょう。」と言った。後者が願主(泰時)の御意に叶ったという。」王相方は陰陽道で王相神のいる方角で、その方角は「月ふさがる」と称して、移転・建築などを避け、必要に応じて方違え(方違え)を行った。
同十九日、「晴れ。若君(三寅)が立春の御方違として武州(北条泰時)の御館に入られた。左近大夫将監(大江)佐房・大膳亮広仲・三浦駿河前司義村・同次郎泰村・同三郎光村・出羽前司(中条)家長・佐々木三郎泰綱らが供奉した。女房五人も同じく参った。」
同二十日条、「晴れ。午の刻(午後零時頃)に若君(三寅)が帰られた。武州(北条泰時)がまた御剣・御馬を進上したという。」
同二十四日条、「晴れ。伊豆国北条の飛脚が(鎌倉に)到来した。右京兆(北条義時)の後室の禅に(伊賀氏)が去る十二日以後、病気となり、昨日巳の刻から危篤になったと申した。」
同二十六日条、「このところ疫病が流行していた。武州は特に驚かれていたところ、四角四鏡(しかくしきょう:四角四境祭疫神の災厄を祓うために家の四隅と国の四方の境で行う陰陽道の祭祀)・鬼気祭(ききのまつり:病悩平癒のために行う陰陽道の祭祀)を行って(疫病を)退けるべきであると陰陽権助(安倍)国定が申してこれを行った。その四境とは、東は六浦、南は小坪、西は稲村、北は山内という。」
元仁二年(1225)の正月は相州(北条時房)の埦飯(おうばん)、若君三寅の御歯固(はがため:正月に歯固の禅を食べて長命を願う儀式)などが行われた。この年には、地震、月蝕、日食、長雨が続き鎌倉では正月から三月まで連日雨が降っていることを記載されている。
同三月二十一日「御所で、人々が鬮(くじ)を引きいて準備し、引き出物などを整えたという。このところ螢惑星のお告げと称して、京都でもっぱらこのようなことをしていると、六波羅が申し送られたという。」
同二十四日条「此のところ太白星が点を通過し、変異であると司天らが申したので、今日、御祈禱が行われた。民部大夫(二階堂)行盛が奉
同五月一日条、「弁僧正定豪・大蔵卿法印良信・駿河前司(三浦)義村・隠岐入道行西(二階堂行村)・陰陽権助(安倍国通道)らが召しによって集まった。二品(政子)が行西を通じて仰った。「今世間では病で死ぬ者が数千人に及んでいる。その災いを祓うために、般若新経と尊勝陀羅尼をそれぞれ一万巻ずつ書写して供養したいと思う。まずどのようにすべきか、考え申すように」。僧正(定豪)が申した。「千人の僧侶を招いて、一千部の仁王経を講読されるのがよいでしょう」。また僧正法印(良信)が申した。「嵯峨天皇の御代に疫病が発生して五畿七道で急死する者がたいそう多く、そこで天皇が自ら筆を執って般若心経を書写され、弘法大師(空海)に命じて供養が行われました」。これを踏まえて般若心経などを書写するのがやはりよかろうと決定した。そこで書写供養の日時を選んで申すよう国道に命じられ、(国道は)今月の十四日・二十二日を返答した。」
同嘉禄元年(1225)五月二日条、「午の刻に京都からの使者が(鎌倉に)到着した。先月二十日に改元があり、元仁二年を改め嘉禄(かろく)元年となった。」同二十二日、鶴岡八幡宮で千二百人の僧侶による供養が行われている。」
同二十四日条、「昨夜、雨が降った・日照りで困窮した民の歎き悲しんでいたところ、法合の後に早速この甘雨が降った。そこで諸天が(祈禱に)応えて下さったことが分かった。国土は豊穣を謳歌することになろう。」
同二十九日条、「二位家(政子)が御病気という。」
同年六月二日条、「晴れ。二位家(政子)の御病気のため、武州(北条泰時)の御沙汰で今日、御祈祷などが始められた。天地災変祭・呪詛祭などを(安倍)国道朝臣、属星祭・鬼気祭を(安倍)親職、三万六神祭・螢惑祭・大土公祭を(安倍)泰貞、太白星祭を重宗、泰山府君祭を宣賢、天曹地府祭を重宗らが奉仕した。」
同三日条、「政子の御病気が少し良くなられたという。」。五日には御祈祷などが重ねて行われた。
嘉禄元年(1225)六月十日条、「晴れ。前陸奥守正四位下大江朝臣広元法師が死去した、享年七十八歳。このところ痢秒(りびょう:激しい腹痛を伴う下痢をする病気)を煩っていたという。」墓所は北条義時法華堂跡の上野山腹に左右に先祖を継承する島津忠久、毛利季光に挟まれ、やぐらに五輪塔が置かれている。
同十二日条、「二位家(政子)の御病気は去る七日から重くなられた。御祈祷として、武州(北条泰時)の御沙汰で三万六千神祭が行われた。御使者は藤勾当(藤原)頼隆であった。」
同十三日条、「晴れ。今日は故右京兆(北条義時)の一周忌にあたり武州(北条泰時)が新たに造営した釈迦堂の供養が行われた。導師は弁僧正定豪で、請僧は二十人。相州(北条時房)以下の人々が群集した。」
同十六日条、「曇り。辰の刻に二品(政子)が気を失われた。諸人が群集したがすぐに回復された。日を追って(病が)重くなってきたので、昨日(十五日)に新御所に移られると仰っていたところ「甲辰(きのえたつ)の日は支障があり、来る二十一日がよいでしょう。」と陰陽師が申した。そこで延期された。」
同年七月六日条、「晴れ。前権侍医和気定基が昨夜から二位家の(政子)の御治療のために参候している。これはこのところ(丹波)頼経朝臣が治療を加えていたが、御病気の様態がよくなられる見込みがないので、「治療の術が及ぶところではありません。」と辞退したためである。」
同月八日条、「晴れ。辰の刻(午前八時頃)に二品(政子)が東御所に移られた。これは御病気がとうとう危篤になったためである。」
嘉禄元年(1225)七月十一日条、「丑の刻(午前二時頃)に二位家(北条政子)が死去された。御年は六十九歳。政子は禅大将軍(源頼朝)の後室であり、二代の将軍(頼家・実朝)の母である。前漢の呂后と同様、天下の政務を執り行われた。あるいはまた神功皇后の生まれ変わりとして我が国の根本を護られたのであろうかという。」。戒名安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は鎌倉の寿福寺に実朝と並ぶやぐらに五輪塔が納められている。嘉暦元年、この年に生涯幕府を支えた大江広元と、幕府を守り続けた北条政子は死去した。三代執権・北条泰時は幕府を支え守った二人を亡くし、新たなる執権としての幕政に携わっていく。 ―続く