尼将軍北条政子は、北条義時亡後、後妻の伊賀方・伊賀氏が権力を有する事で北条氏・政子の政的立場の低下を憂慮した北条政子・大江広元による策謀ではないかと考える事も出来る。また泰時は政子の画策には乗らず事態を鎮静化させた説もある。「伊賀氏の変」が冤罪であった可能性も高い。しかし、北条政子は、承久の乱後、三年で弟の二代執権北条義時が死去し、北条執権体制を維持しつつ東国及びこの国の安定を考慮した上で「伊賀氏の変」という政的画策を強行したと私は考える。この時期の文献資料等を参考にすると北条泰時が義時の後を継ぐのに最適であった事は言うまでもない。しかし、後に勢力を拡大させる要素のある伊賀氏に対し政子は強行に出た。伊賀氏にとっては、大変な冤罪である。
泰時は、将軍家二品(政子)の画策を鎮静化しようとした節が『吾妻鏡』に記載され、異母弟正村を擁護している。『吾妻鏡』は以前に記載したように北条氏により後に編纂され、北条義時・子息の泰時の偉業について多く記載されており、特に泰時についてはその傾向が多大である。しかし、北条泰時の時代は争乱もなく北条執権体制を強化、そして北条得宗家、という位置も確立させ、御成敗式目という江戸時代まで応用された武士の法的規範を策定した。この間について、もうしばらく『吾妻鏡』を見ることにする。
元仁元年九月五日条、「晴れ。故奥州禅室(北条義時)の御移籍の庄園を男女の賢息に配分された注文(内容を記載した文書)を武州(北条泰時)が二品(政子)から賜った。(泰時は)方々に廻覧し「それぞれの所存があれば事情を申されるように。そうでなければ御下文(くだしぶみ)を申請する。」と伝えられた。皆は歓喜した上、全く異議は無かったようである。この事は泰時の下向の最初に内々にこれを配分され、密かに政子にご覧に入れたところ、(政子が)ご覧になった後に仰った。「大概はよろしいでしょう.但し嫡子(泰時)の分がたいそう不足しています。どうした事でしょう」。泰時が申された。「執権を承った身として所領等の事はどうして強いて競い望む事がありましょうか。ただ舎弟らに与えようと思います」。政子は頻りに御感涙をながされたという。そこで今日、(配分を泰時が計らって披露したという。また故前奥州禅室(義時)は、生前は京官・国司共に任を去られていたので常の例によってただ前奥州と称していたが没後の今となっては右京権大夫と称するよう定め下されたという。子の刻(午前零時頃)に三浦駿河前司義村の西御門の家が焼亡した。(火は)他所には及ばなかった。この間(鎌倉の)南方が少々騒動したという。」
同九日条、「陸奥守(足利)義氏が新恩を与えられた。美作国新野保以下数ヶ所という。」
同十三日、「晴れ。戌の刻に螢惑星が南斗に接近したと司天が申した。」
同十五日、「鶴岡放生会の式月が延期されていたが、今日行われた。相州(北条時房)が若君(三寅、後の頼経)の御奉幣(ほうへい)の御使者であった。(時房は)束帯(平安期以降、男子の正式な服装)・帯剣であったという。」
同十六日、「曇り。晴れ。寅の刻に太白星が辰星に接近したという。今日、流鏑馬以下の神事がいつも通り行われた。相州(北条時房)の参宮は昨日と同じであった。三浦駿河前司(義村)・出羽守(中条家長)・小山判官朝政が馬場を警備した。」
同十七日条、「卯の刻に自信があった天変の御祈祷などが行われた。」
同年十月一日条、「今日、武州(北条義時)が駿河前司(三浦)義村・小山判官朝政・出羽守(中条家長)以下の宿老を招いて盃酒を勧め贈り物に及んだという。」
同十日条、「宰相中将(一条)実雅は越前国に配流されることが決定されたという。」
十六日条、「天変の御祈が行われ、島津左衛門慰忠久が奉行した。(忠久は)また一方の供料を進上したという。…」
同二十八日条、「安房国麻殖保の預かりどころである左衛門尉清基と地頭の小笠原太郎長経とはこのところ相論する事があり、今日、両国司(北条泰時・時房)の御前で(訴訟の)対決を行った。清経が申した。「当保は(平)康頼法師の功績によって右大将家(源頼朝)から拝領し、今まで相伝領掌してきたところ、長経が謀叛人跡と称して賜りました。正しい道理ではなく、速やかに返付していただきたい」。長経が申した。「清基は去る承久三年の兵乱の時、院(後鳥羽)に祇候し腹巻をつけて官軍に加わっていました。その上、自宅から和田新兵衛尉朝盛法師が出立して戦場に向かいました」。清基が重ねて申した。「伯父の左衛門慰仲康と朝森入道は盟友です。そこで対面しただけでまったく同心しておりません」。そうしたところ、承久の兵乱の頃に清基が阿波国の守護人佐々木弥太郎判官高重に遣わした文書には「男は一人であっても御大切であり、麻殖の人々があなたに付き従ったのは神妙(立派な事)です。」と記されていた。その文書がにわかに出現したので(泰時・時房の)ご覧に入れたところ逆説は疑いないと決定され、清基の訴訟は退けられたという。」
同二十九日条、「晴れ。宰相中将(一条)実雅が京都で解官され越前国に配流されたという。」
同年十一月九日条、「亥の刻(午後十時頃)に地震があった。今日、伊賀四郎左衛門尉朝行・同六郎右衛門尉光重が流刑により鎮西に赴いたという。」
同十三日、「申の刻(午後四時頃)に雷鳴があり激しく雨が降った。」
同十四日、「晴れ。式部大夫(源)親行・伊具馬太郎盛重が出仕を止められ所領を没収された。これは相公羽林(一条実雅)の上洛に付き従った罪による。」
同十五日条、「申の刻(午後四時頃)に地震があった。」
同十八日条、「晴れ。武州(北条泰時)が故右京兆(北条義時)の一周忌の御追福のため伽藍を建立された。今日、立柱が行われ、右近将監(尾藤)景綱が奉行したという。」
同年十二月二日条、「晴れ。武州(北条泰時)は執権として殊に政道興行の志を顕すため明法道(律令下の大学寮における四道の一つで律令を専攻する学科)の目安(読みやすくするために箇条書きにした文書)を今朝から毎朝ご覧になるという」。
ここで、明確に北条泰時が執権として記載されている。一説に泰時は執権複数性を意図して時房も執権に就任させたとする説。また、時房の執権(連署)就任は北条政子と大江広元の強い意向によるもので泰時の意向ではなかったとする説もある。ただ、執権複数制により、後に対立して争乱を引き起こす可能性もあった。泰時と時房は対等な関係であったが、実質的な権限は執権が優越した。幕府公文書において執権・連署の連名書による配布が行われる事は、泰時が合議制を尊重し、信条としての反映であったと窺うことが出来る。この執権と連署の体制が鎌倉幕府の体制となり、幕府滅亡まで存続することになる。また明報道の目安は、泰時の法を伴う秩序の安定を「御成敗式目」の制定に関与したのだろう。 ―続く