北条泰時は、幕府草創から支えた大江広元、と伯母である尼将軍の北条政子が嘉禄元年に死去し、後見及び補佐をする人物を失うが、それらの束縛と干渉を避けることが出来た。泰時の幕府執権として独自の政治手腕が求められる中、自身の政治体制を確立してゆく。源頼朝から北条政子までの専制体制から集団指導体制、合議制政治を打ち出し難局を切り抜けた。
(写真:鎌倉の常楽寺)
『吾妻鏡』では元仁元年(1224)に、北条義時の死に際し、北条泰時、北条時房は、同日に鎌倉入りを果たしたように記載されており、伊賀氏の乱の風聞が聞こえる中同年六月二十八日に北条政子、大江広元の同席のもとに泰時と時房が「軍営御後見」任じられ事実上の執権就任とされる。しかし、通説によると先に帰還した泰時の招聘で鎌倉に戻り、泰時の補佐をするため請われ同年初代連署に就任した。泰時は執権複数制を意図し、時房も「執権」に就任させたとする説もある。しかし時房の執権(連署)就任は北条政子と大江広元の強い意向によるもので泰時の意向ではなかったとする説もある。現存する関東下知状や御教書の位署が、政子が死去するまでの間、泰時が単独で行っており、実際執権(連署)に任命されたのは政子の没年後とする説もある。嘉禄元年(1225)正月元旦、「相州(北条時房)の埦飯(おうばん)、若君三寅の御歯固(はがため:正月に歯固の禅を食べて長命を願う儀式)などが行われた」。事から当初において、北条氏の嫡男泰時と北条氏一門の長老である時房の間で主導権をめぐる争いがあったようで埦飯後、時房は京都に戻った。また、時房の執権(連署)就任を政子の後ろ盾によるものとする立場からすると政子と広元の四は時房にとって政治的基盤を失った時房にとって泰時と対峙する必要があったとされる。
(写真:鎌倉の常楽寺)
貞永元年、将軍藤原頼経(三寅)が従三位叙位されて政所を設置できるようになると泰時・時房が供に政所別当に就任したが、後に泰時は筆等の別当を時房に譲った。泰時と時房の叔父と甥の関係は執権・連署と立場から良好な関係と考えがちだが、果たしてそうであったかは疑問が残る。時房は、延応二年(1240)に享年六十六歳で死去し、七年の間は連署が空位になり、文永元年(1274)に甥の北条重時が就任した。北条泰時は三浦義村等の有力御家人と中原師員ら幕府事務官僚など十一人の評定集を選び政所に出仕させ執権・連署を加えた十三人の「評定」を新設し幕府の最高機関として政策、人事の決定、訴訟の裁決、法令策案など行った。江戸時代においても応用された武士の法令「御成敗式目」の制定もこれらの評議制の結果として考えられる。
北条泰時は、『吾妻鏡』嘉禄元年(1225)十二月月二十九日条、「晴れ。若君の御方の御元服が行われた。申の刻に二棟御所の南面でその儀式があった。五党左衛門慰基綱が今日の奉行であった(若君は)時刻にお出ましになり、二条侍従(飛鳥井)教定が介助した。武州(北条泰時)・陸奥守(足利)義氏以下が侍の座に就き、次に元服の所々の道具が置かれた。駿河守(北条重時)が陪膳に祇候し、周防前司(藤原)親実・右馬助(藤原)仲能等が役送りを勤めた。理髪・加冠は泰時で、御名字(頼経)を前春宮権大進俊道朝臣が選び申した。相州は去る二十三日からずっと病気であり、今日は出席されなかったという」。頼経八歳である。頼経は嘉暦二年一月二十七日に正式に征夷大将軍となり泰時は大倉御所から宇都宮辻子に幕府を新造する。泰時は、幕府の最高権威者は将軍として強調し続け、評定での決定事項などは将軍に常に報告したとされる。また京都に倣って鎌倉大番役や四角四境祭などを導入した。しかし、泰時以降の執権は北条氏が将軍にならずとも、北条氏が執権とし、幼少の将軍を擁立し政務を掌握する事で、その位置と存在感を東国武士に知らしめた。摂関将軍・頼経の子・頼嗣。六代将軍には、宮騒動などの影響で、より頼権威を高めるために親王将軍として宗尊親王、惟康親王、久明親王、最後の九代親王将軍・守邦親王と幼少の将軍を立て、元服した後は追放という形で将軍を擁立し続けたけたのである。
(写真:鎌倉 妙隆寺)
北条泰時が執権に就き、北条得宗家が確立してゆく。『吾妻鏡』では、泰時の政務に付き模範的な人物像・執権として記載されている。しかし北条氏による鎌倉後期に編纂された『吾妻鏡』であるために偏りは否めない。泰時の代には、和歌江島の港湾施設、主要通路の整備など行いう。また、騒乱が起こっていない点、執権として高く評価されるのも事実である。
泰時の家内では嘉暦三年(1227)六月十八日、次男時実・十六歳が家臣に殺害され、三年後には長男の時氏が病のため二十八歳で没した。その一月後三浦泰村に嫁いだ娘が出産し、子が十日余りで亡くなり、娘も産後の肥立ちが悪く八月に二十五歳で亡くなり、立て続けの不幸に見舞われている。時氏死去後、得宗家嫡子を時氏の長男・経時を執権嫡子とした。北条泰時は、仁治三年(1242)六月十五日に享年六十歳で死去。武勇にも優れ和田合戦及び承久の乱で勲功を立て、戦で先陣に立った唯一の執権であった。墓標は、鎌倉の常楽寺に置かれている。その後、四代執権になるが経時も享年二十三歳で没する。経時に嫡子があったが幼少のため執権を弟の時頼に相続させている。これは反得宗家の名越北条に対する警戒のための経時と時頼の政治的判断があったとされ、この事により北条得宗家の強固に確立された。 ―了
(写真:鎌倉浄楽寺と北条泰時墓標)