大江広元、三善義信は、文官でありながら源頼朝共に治承・寿永の乱を乗り切り、幕府創立に貢献した。彼らは京都の情勢に強く、院の宣旨が出ても、諸氏が京に集まるには時間がかかることは、承知していた。それよりも時の勢いに乗り武士が集積する事や、治承・寿永での宇治川の合戦などの教訓、そして、東国武士の恩賞に対する心変わりする本質を見抜き、即刻の上洛を提言した。その提言を幕府執権北条義時が受けて実施した事が後に合議をうまく進める執権として評価されるに至った。そこには、幕府の北条政子を中心に頼朝以来の重臣が組織的に一丸となり対応し、戦いの大義名分を御家人に知らしめた結果によるところが大きい。しかし、後鳥羽院の官軍には、提言を行う公卿・武士がおらず烏合の衆であり、また提言を受け入れない後鳥羽院の「神器無き即位」の不徳であった。大江広元、三善義信が予想した通り、官宣旨による徴兵は遅れ進まなかった。
(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽院像、北条政子像)
幕府軍は、承久三年(1221)五月二十二日に卯の刻に武州(北条泰時)が従う軍勢十八騎で京都に出陣した。『増鏡』には、泰時が鎌倉に引き返し、院が兵を率いられた場合の対処を義時に尋ねており、義時は、「君の輿には弓は引けぬ、直ちに鎧を脱いで弓の弦を切って降伏せよ、都から兵だけ送ってくるならば力の限り戦え」と命じている。
これは、博打的な要素を持った決断であるが、慣例において後鳥羽院が戦場には赴かず、後鳥羽院が兵力を増強する前に上洛すると言う必勝を期すために適切な判断であったと考えるが、覚阿(大江広元)、入道善信(三善康信)の情報収集と分析能力、経験値、そして東国武士の恩賞にこだわる群集心理を見抜いていた策であった。
(写真:ウィキペディアより引用 北条義時像、大江広元像)
同二十三日条、「右京兆(北条義時)・前大膳大夫覚阿(大江広元)、駿河入道行阿(中原季時)、大夫属入道善信(三善康信)、隠岐入道行西(二階堂行村)、壱岐入道(定蓮・葛西清重)、筑後入道尊念・八田知家)、民部大夫(二階堂)行盛、加藤大夫判官入道覚蓮(影廉)小山左衛門尉朝政、宇都宮入道蓮生(頼綱)隠岐左衛門入道行阿(二階堂基行)、善隼人入道善清(三善康清)、大井入道(実平)中将右衛門家長以下の宿老は上洛せず、それぞれ鎌倉に留まりあるいは祈祷をさせ、あるいは派遣する軍勢を徴発するという」。
同二十五日条、「去る二十二日から今日の明け方までに、しかるべき東国武士はすべて上洛し、京兆(北条義時)の下で交名(こうみょう:出陣した御家人や郎党の名と人数)が書き留められた。それぞれ東海道、東山道、北陸道の三道から上洛するよう命じられ、軍勢は総勢十九万騎である」。二十二日に、東海道から上洛の為、北条泰時は僅か十八騎で鎌倉を発ったが、『吾妻鏡』のこの記載が真実であれば、この十八騎の出陣の行為が東国武士の雪崩のような鎌倉への集積した要因である。
また、各御家人は各地に所領を分散していたため、東海道、東山道、北陸道沿いに所領地を持つ御家人は、その地の代官、郎従を引き連れ拡大して行く。これらの人数も交名に含まれていたと考える。この早急な対応は、的確な情報と迅速な対応の決断によって行われたが、東国武士が、恩賞にこだわる打算的な面が大いにある一方、自治権を得た東国の武士が再び律令国家、または、院の専制国家として戻る事に躊躇し幕府方に従軍したとも考える。
(写真:ウィキペディアより引用)
東海道軍の大将軍は、相州(北条時房)、武州(北条泰時)・洞太郎(時氏)、武蔵前司(足利)義氏、駿河前司・(三浦)義村、千葉介胤綱。従う軍勢十万余騎。
東山道軍の大将軍は、武田五郎信光、小笠原次郎長清、小山新左衛門尉朝長、結城左衛門慰朝光。従う軍勢五万余騎。
北陸道軍の大将軍は、式部丞(北条)朝時、結城七朗朝広、佐々木太郎信実。従う軍勢四万余騎であった。
同日、「泰時は駿河国に到着した。その時、安藤兵衛尉忠家は、このところ義時の命令に背くことがあって駿河国で謹慎していたが、泰時の上洛を聞くと馬に乗ってやって来て(軍勢)加わった。泰時は言った。「お前は謹慎を受けている者である。同道するのは良くない」。忠家が言った。「手順を踏むのは平穏の時の事です。命を戦いで棄てるために出発した以上、鎌倉に申さずとも何事がありましょうか」。とうとう付き従ったという」。この安藤忠家という男は、建暦二年(1213)金窪行親とともに和田胤経を謀叛のかどで捕縛尋問し、胤長の所領を行家と分割し下賜された。和田義盛、公暁の首実験も担当している。
二十六日条、鶴岡(八幡宮)で世の中の平穏を願うきとうがはじめられた。また、右京兆(北条泰時)の祈禱である属星祭(ぞくしょうさい)が(鶴岡)若宮でおこなわれた。「武州(北条泰時)は手越駅(駿河国有度群:静岡県静岡市駿河区手越付近)に到着した。信濃国の武士の春日刑部三郎貞幸が信濃国からここにやって来て合流した。武田・小笠原と合流するよう命令があったが、契約があると言い泰時に合流し従ったという。今日の夕方(藤原)秀澄が美濃国(去る十九日に官軍を派遣して所々の席が固められていた)方京都に飛脚を進めて申した。「関東の武士が官軍を破るため、間もなく上洛しようとしています。その軍勢はその軍勢は雲霞(うんか)のような大軍で、仏神の御加護が無ければこの天災を退ける事は出来ないでしょう」。これにより院中はようやく慌てふためいた。参院(後鳥羽・順徳・土御門)が立願されることになり、五社に御幸されたという」。 春日刑部三郎貞幸は、後宇治川の合戦で先陣争いをして官軍の矢が馬にあたり、水中に沈むが短刀で鎧を切り外し、従者の弓に手助け上げられるが、貞幸に従っていた子息・郎従以下十七人は溺れ死んだ。また、泰時を助けた事で、乱後に貞幸の功名は先陣にも優ると鎌倉で評価されたと言う。氏合戦で述べることにする。
(写真:ウィキペディアより引用 富士川)
同二十七日条に幕府は、院宣の勅使である押松丸に進士判官代橘隆邦が書いた宣旨の請文を持たせ京に返した。
同二十八日条、「雨が降った武州(北条泰時)は、遠見国天竜川に到着、連日の洪水で船の使用に師匠があるはずのところ、この川は全く水が無く、皆歩いて渡った」。
翌二十九日条、「雨が降った佐々木兵衛尉太郎信実(北陸道大将軍・北条朝時に兵衛盛綱法師の子息)が北陸道の大将軍(北条朝時)に従い上洛した。越後国加地庄の願文山に乱逆の首謀者である阿波宰相中将・藤原信成卿の家人・酒匂(さかわ)家賢の一味六十余人を率い越後国加地庄の願文山に立て籠もったので、信実がこれを追討した。関東武士が官軍を破った最初の合戦である」。
晦日条、「北条時房が遠江国橋本駅(遠見国敷智群:静岡県浜名郡新居町付近)に到着夜になって勇士十余人が密かに時房の大軍に紛れ込み、先陣に進み出た。(時房が)不審におもって内田四郎に尋問させた。「仙洞(後鳥羽)に祇候している下総前司小野盛光の近親の筑井太郎高重が、上洛する。」という。そこで高重を誅殺したという」。 ―続く