鎌倉散策 『吾妻鏡』に見る北条執権体制 十二、十八騎の出陣 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年(1221)五月十九日条、北条正子が御家人たちを御簾の側に招き、秋田城介・安達泰盛を介して指示して言った声明文で、御家人達を結束させた。その言葉のなかには、源氏三代将軍による御恩と奉公による関係と共に東国武士達が東国は自らが治政するという、独立的思考をよみがえらせたのである。

 

 『吾妻鏡』は、晩鐘の頃に、義時の館で北条時房・泰時、覚阿(大江広元)、三浦義村、安達景盛等が評議を重ね、意見が分かれたが、結局は足柄・箱根の二つの関所を固め官軍を迎え撃つ策に決まった。しかし、覚阿(大江広元)が、「議論の趣旨はひとまず適当です。ただし東国武士が心を一つにしてなければ、関を守って時間が経過するのは、かえって敗北の原因になるでしょう。運を天に任せて速やかに兵を京都に派遣されるべきです」。義時が両方の意見を政子に申したところ、「上洛しなければ、絶対に官軍を破ることはできないでしょう。安保刑部丞実光の武蔵国の軍勢を待って速やかに京に参るべきです」。この言葉に従い軍勢を上洛させるため遠見、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽などの国々に京兆(義時)の奉書を伝え一族らを率い(て出陣す)るよう家々の長に命じた。奉書の内容は「京都より坂東を襲撃するとの風聞があったので、相模守(時房)・武蔵守(泰時)が御軍勢を率いて出陣する。式部丞(北条朝時)は北国に向かわせる。この事を速やかに一家の人々に伝えて出陣せよ」と命じた。 

 同二十日条、「世の中の平穏を心を込めて祈禱するように荘厳房律師(行勇)と鶴岡(八幡宮)別当の法印定豪らに指示された。また三万六千神さ祭が行われ、民部大夫(町野)康俊・左衛門尉(清原)清定が奉公したという」。

  

同月二十一日条には、午の刻(午後零時頃)、宰相中将・一条大夫頼氏が、十六日に京を出て鎌倉二品(政子)の御邸宅に到着した。一条頼氏以下の一族は多く院(後鳥羽)に祇候(しこう)したが、一人(頼氏は)旧好を忘れずに急ぎ参ったという。政子は深く感じて喜び、京都の情勢を尋ねると、頼氏は詳しく述べた。「先月より洛中は静まらず、人々が恐怖を感じていたところに(後鳥羽院は)十四日の夕方に(大江)親広入道を召し、また右幕下親子(藤原公経・氏実)を幽閉されました。十五日の朝、官軍が争うように蜂起し、高陽院(かやのいん)殿の諸門を警護しました。およそ千七百四騎といわれ、内蔵頭(くらのかみ:藤原)清範がこの軍勢の着致(ちゃくとう:着致帳、駆け付けた武士達の名前手勢を書き留めた文書)を記しました。その後(藤原)範茂卿を御使者として新院(順徳)を迎えられ、(順徳)の御幸がありました。範茂卿と同じ車でした。その後、土御門院[烏帽子・直垂。かの卿二品(藤原兼子)と同じ車]・六条宮(雅成親王)・冷泉宮(頼仁親王)らがそれぞれ密かに高陽院殿にはいられました。同日、大夫尉(大内)惟信・山城守(佐々木)広綱、廷尉の(三浦)胤義・(佐々木)高重らが勅命を賜り、八百余騎の官軍を率いて(伊賀)光季の高辻京極の家を襲撃し合戦しました。事態は急であり、光季と子息寿王患者光綱は自害し、宿所に火を放ちました。南風が激しく吹いていたので、日は燃え広がり数十町(姉小路東洞院)に及びました。申の刻(午後四時ころ)に高陽院殿に(仲恭の)行幸があり、徒歩によるものでした。摂関(藤原道家)が供奉し、近衛将一、二人と公卿がわずかに参りました。賢所(かしこどころ:神鏡)も同じく移されました。同じ時に六角西洞院で火が起こり、閑院の皇居に並びそうになったので避難されたのです。また高陽院殿で御修法が行われ、仁和寺宮道助(入道親王)と良快僧正以下が奉仕し、寝殿の御所を壇上としました」。

 

(写真:京都仁和寺)

 同日、天下の重大事などを再び評議が行われた。住むところを離れ、官軍に敵対して不用意に上洛するのはどのようなものかと異議が出たためである。前大膳大夫入道(覚阿:大江広元)が「上洛と決した後に日が経ったので、とうとうまた異議が出されました。武蔵国の軍勢を待つのも、やはり誤った考えです。日時を重ねていては武蔵国の者らであっても次第に考えを変え、きっと心変わりするでしょう。ただ今夜中に武州(北条泰時)一人であっても、鞭を揚げて急行されるならば、東国武士はすべて雲が龍に靡(なび)くように従うでしょう。」と提言すると京兆(北条義時)は、感心したとされる。ただし、老衰が重くなり(自宅)に籠っていた大夫属(たゆうのさかん)入道善信(三善康信)も宿老であるため政子が招いて相談したところ「関東の安否は今、最も重要な局面を迎えました。あれこれ論議しようとするのは愚かな考えで、兵を京都に派遣することを強く望んでいたところ、日数が経過したのはまことに怠慢と言うべきです。大将軍一人は、まず京へ向け出発されるべきでしょう」。義時は「両社の意見が一致したのは神仏の御加護であり、早く出発せよ」と泰時に指示した。三善康信は、この二か月半後の承久三年八月九日に老衰のため死去している。そして、その夜に泰時は藤沢左衛門尉清親の稲瀬川の邸に宿泊したという

 

 大江広元、三善義信は、幕府草創の源頼朝と共に従い、政所別当、門注所執事の文官でありながら最大に貢献した人物である。政所別当としての行政と京の朝廷との対応を提言し、門注所別当は裁判における審裁資料等の作成、手続き、記録を担う者として幕府の根幹を担う者であった。彼らは、京都に生まれ、朝廷の中下級貴族の役人であった事から、朝廷の慣例や京都の情勢に詳しく、彼ら二人の分析能力は、治承・寿永の乱から幕府創建後の争乱に及び、東国武士の思想的根幹を捉えている。後鳥羽院の宣旨が出ても、諸氏が京に集まるには時間がかかることは、承知していた。それよりも時の勢いに乗り武士が集積する事、治承・寿永での宇治川の合戦などの教訓、そして、東国武士の恩賞に対する心変わりする本質を知り、即刻の上洛を提言したことである。大江広元は嫡子親広後鳥羽院に与したため、この評議においては、強硬な発言力を示すことが出来なかったと思う。北条政子の三善康信を病床に伏していながら評議に参画させ、意見を述べさせたところに政子の政治手に長けていた事が窺いとれる。そして三善康信は、生涯を注いだ武士政権の鎌倉幕府という夢を全うし、この承久の乱後の承久三年(1221)八月九日に没した。

 

 翌二十二日条、小雨の降る中、卯の刻に武州(泰時)僅か従う者、十八騎で京に向かって出陣した。(泰時の)子息・武蔵太郎時氏、弟陸奥六郎有時、また北条五郎実義(後実泰)、尾藤左近将監景綱(平出弥三郎、錦貫次郎三郎が従う)、関判官代(実忠)、平三郎兵衛尉(盛綱)、南条七朗(時員)、安藤藤内左衛門尉、伊具太郎(盛重)、岡村次郎兵衛尉、佐久満太郎家盛、葛山小次郎広重、勅使河原小三郎則直、横溝五郎資重、安藤左近将監、塩河中務丞・内島三郎忠俊である。京兆(北条泰時)はこの者たちを呼び皆に兵具を与えた。その後、相州(北条時房)、前武州(足利義氏)、駿河前司(三浦義村)・同次郎(泰村)以下が出発し、式部丞(北条朝時)は北陸道の大将軍として出発したという。 ―続く