鎌倉散策 『吾妻鏡』に見る北条執権体制 十四、尾張・美濃での攻防 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年(1221)六月一日条、押松丸が帰洛して高陽院(かやのいん)殿に参り(後鳥羽院より)関東の事情を尋ねられた。押松が申した。「(鎌倉に)到着した日から上洛の道中に至るまで心を悩ませていました。官軍を破るために京に参上しつつある東国武士は幾千万とも知れません。院中の人々は早急な出陣と、その兵数に驚くほかなかったという。

 
 

(写真:ウィキペディアより引用)

 同六月三日条、関東の大将軍が遠江国府に到着したと伝える飛脚が京に入ったので、公卿僉議(せんぎ)が行われ防戦の為官軍を諸方に派遣され、今日の明け方にそれぞれ出発した。『吾妻鏡』『承久記』「慈光寺本」とで相違があるが陣容は、北陸道に宮崎定範、糟屋有久、仁科盛朝、大江能範。東海道・東山道は美濃国の要害に対する配置が行われ、阿井渡(あいのわたり)蜂谷入道。大井戸渡は、大内惟信、五条有永、糟屋久季。鵜沼渡は斎藤親頼、神地(こうずち)頼経。板橋は、荻野次郎左衛門、山田重継。火御子(ひのみこ)内海、御料、寺本。池瀬(伊義渡:いぎのわたり)は、朝日頼清、関左衛門慰、土岐判官代国衡、開田重朝、懸橋、上田。摩免戸(まめど)藤原秀康、佐々木広綱、小野盛綱、三浦胤義。食渡(じきのわたり)は山田左衛門、臼井太郎入道、惟宗孝親、下条、加藤判官。滋原(しげはら)左衛門、源(渡辺)翔(かける)。墨俣は藤原秀住澄、山田重忠。市脇は加藤光員が陣に着いた。

 

(写真:比叡山延暦寺)

 藤原秀康・秀澄兄弟は院近臣の武士、大内惟信、五条有永、佐々木広綱、小野盛綱、三浦胤義等は在京御家人、源翔は西面の武士。山田重忠・重継親子、蜂谷、神地、内海、寺本、開田、懸橋、上田灰野・尾張の武士で構成された軍勢である。『承久記』「慈光寺本」によると「一万九千三百二十六騎と鎌倉方の十分の一であった。院近臣の武士で海道大将軍である藤原秀澄は、その軍勢を十二ヵ所の木戸に分散させる戦術を取った。その結果、各木戸の兵力は減少し、明らかな失策であったと「慈光寺本」でも「哀レナリ」と叙述している。一箇所に軍勢を集中させ防戦することは危険が伴う。本来は、幕府の弱小と見られる軍勢に対し遊撃戦を加え勝利する事で士気も上がり、時間稼ぎになる。局地戦での勝利により官軍に加わる軍勢も出る可能性もある。官軍を下向させた後にも後鳥羽院は追討宣旨を発して在京・畿内在国の武士や荘官、寺社、公卿の兵力を招集したが寺社勢力の参陣拒否や荘官等の本意ではない参戦などで相次ぎ十分な兵数の招集が出来なかった。後鳥羽院の招集計画も甘く、藤原秀澄の失策等で、攻勢から受け身に転換し、その後の戦局に大きな影響をもたらす。

 

(写真:京都御所)

 六月五日条、辰の刻に関東の両将(北条時房・泰時)が尾張国一宮の辺りに到着し、合戦の評議が開かれた。ここから方々の道に分かれ、東山道の鵜沼渡には毛利季光、池瀬には足利義氏、板橋には狩野宗茂、摩免度には北条泰時、三浦義村、東海道の墨俣には北条時房、安達景盛、と武蔵の御家人・豊島、安達、江戸、河越が就くことになった。その夜、東山道の討手である武田信光・信政・小笠原長清、小山朝長らが木曽川を渡り大井戸・河合の官軍に戦いを挑んだ。官軍の大将・大内惟信以下は(子の帯刀惟忠を討たれ)逃亡し、五条有永、糟屋久季は負傷し、(藤原)秀康、(佐々木)広綱、三浦胤義以下は皆、警護していた場所を放棄して今日に帰ったという。この合戦で蜂谷入道は負傷、子の蜂谷三郎は討たれている。幕府の軍勢が夜討ちの遊撃的戦術を用い勝利した。武田・小笠原の東山道軍は鵠沼渡しに向け進軍する。

 

同六日、幕府東海道軍と官軍側が尾張河渡河で初めて遭遇し合戦となった。今日の明け方、武蔵太郎(北条)時氏・陸奥六郎(北条)有時が少輔判官代(大江)佐房・阿曽沼親綱・小鹿島公成・波多野経朝三善康知・安保刑部丞実光らとともに摩雌度を渡った。官軍は矢を放つことなく敗走した。山田重忠が一人が留まり伊佐行政と戦ったが、重忠も逐電した。鏡右衛門尉久綱はこの場に留まり、姓名を旗に記して高くそびえ立つ岸に立置き、佐房と合戦した。久綱が「臆病な(藤原)秀康に付き従ったため、思う様に合戦が出来ず、非常に後悔している」。とうとう自害し、(佐房)は旗の名を見て悲涙を拭ったという。時氏が筵田(むしろた:美濃国席田群、現岐阜県本巣市の旧糸貫町付近)に到着すると、官軍三十人ほどが待ち構えており、合戦となった。楯を背にした精鋭が東国武士を射ることは数回に及んだ。時氏は康知、中山重継らに命じて矢を討ち返させた。波多野義重は先陣を進んでいたところ、矢が右目に当たり、意識が朦朧としたものの、応戦の矢を射たという。官軍は逃亡し、総じて株河(くいせがわ:大垣市の西部を経て養老郡養老町大野付近で牧田川にそそぐ河川)・墨俣・市脇などの要害はすべて敗れ去った。三浦義村は摩免戸(まめど)渡の攻口を担っていたが弟胤義も朝廷側として摩免戸ノ渡を固めており、三浦一族で兄弟同士の戦が始まろうとしたが、その軍勢の多さに官軍は矢を放つことなく胤義は陣を放棄し京に逃走しとされる。

 

(写真:京都 宇治平等院)

 六月七日、近江国に入る前に美濃国不破郡の野上宿と垂井宿に陣を構え、合戦の評議を行った。大勢は北陸軍を待ち、京に総攻撃をかけると言う流れになったが、そこで三浦義村が「今は、わが軍が勝ちに乗りたり。北陸軍の到着を待って日を送れば、敵勢も防戦の構えを固め、直ちに攻めあがるべし」と述べるとその案が受け入れられ、「北陸道の大将軍が上洛する前に、兵を京の東の要所に派遣されるのはいかがでしょう。そこで、瀬田には相州(時房)、手上(たのかみ)には城介入道(覚知:安達景盛)・武田五郎等、宇治川には武州(泰時)、芋洗いには毛利入道(西阿:季光)、淀渡(京都市伏見)には結城左衛門尉と義村が向かいます」。泰時は承知し、それぞれ異論はなかった。駿河次郎(三浦)泰村は、父義村と同行せず、泰時の陣に加わる。推測だが義村の裏切りを拒むための人質ではなかったかとも考えられる。

 

(写真:京都 東寺)

 六月八日条、寅の刻(午前四時頃)に藤原秀康、五条有長が負傷しつつ京に帰り後鳥羽院に奏聞した。「去る六日に摩免戸にて合戦に及び官軍は敗北いたしました」。人々は顔色を変え御所中が騒動となり、女房や上下北面の武士・医師・陰陽師の者が東西に走り乱れた。坊門忠信・源定道・源有雅・藤原範茂以下側近の公卿らは宇治・瀬田・田原(京都府綴喜郡宇治田原)の防護に向かっている。その後、鳥羽院は、比叡山延暦寺の僧兵に期待し比叡山に御幸した。後鳥羽院、御直衣・御腹巻で日照りが差を指された。女院・女房達は皆牛車に乗り、土御門院・新院(順徳)は御布衣、六条親王(雅成)・冷泉親王(頼仁)は御直垂(直垂)で御騎馬であった。とされる。 ―続く