早急な京での情勢の知らせで事態を知った幕府は、院宣旨の使者を捕らえて鎌倉で留めた。そして各御家人に宣旨が渡ることを止め、院宣旨の内容を内密にし、義時追討宣旨を隠し、幕府討伐の宣旨に切り替え御家人に対応する。古代から朝敵は滅ぼされ、院・朝廷と戦う事で朝敵の汚名を受ける事を大変恐れ、朝敵になる事は考えられなかった。この知らせで御家人は朝廷から宣旨が出た事に大いに動揺する事になる。『吾妻鏡』では、承久三年(1221)五月十九日条において、後鳥羽院の院宣に対する詳細な内容の記載は無く、「按察使(あぜち:藤原)光親卿に勅して右京兆(北条義時)追討の宣旨が五畿七道に下されました」と記されているだけである。
北条義時追討の院宣は坂井孝一氏『承久の乱』真の「武者の世を告げる大乱」から『承久記』「慈光寺本」の院宣の内容を引用させていただくと。「院宣を被(こうむ)るに称(い)へらく、故右大臣薨去(こうきょ)の後、家人等偏(ひとえ)に聖断を仰ぐべきの由、申さしむ。仍(よっ)て義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食(おぼしめ)すところ、三代将軍の遺跡(ゆいせき)、官領する人なしと称し、種々申す旨あるの間、勲功の職を優ぜらるるによって、摂政の子息に迭(か)へられ畢(おわ)んぬ。然而(しかれども)、幼齢未識の間、彼(か)の朝臣、性を野心に稟(う)け、権を朝威に借り。これを政道に論ずるに、挙豈(あ)に然る(しかる)べけんや、重ねて仍(よっ)て自今以後。義時朝臣の奉行を停止(ちょうじ)し、併(いかしながら)、叡襟(えいきん)に決すべし。もし、この御定(ごじょう)に拘(かかわ)らず、猶(なお)叛逆の企てあらば、早くその命を殞(おと)すべし。殊功の輩(ともがら)においては、褒美を加えるべき也。宜しくこの旨を存ぜしむべし、てへれば、院宣かくの如し。これを悉(つく)せ。以て状す。 按察使光親奉る」。
内容は現代文に訳すと次の通りである。「「故右大臣」実朝の死後、御家人たちが「聖断」すなわち天使(「治天の君」後鳥羽院)の判断・決定を仰ぎたいと言うので、後鳥羽は「義時朝臣」を「奉行の仁」、すなわち主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ、「三代将軍」の跡を継ぐ者がいないと訴えてきたため、「摂政の子息に継がせた。ところが、幼くて分別が無いのをいいことに「彼の朝臣」義時は野心を抱き、朝廷の威光を笠に着て振舞い、然るべき政治が行われなくなった。そこで、今より以後は「義時朝臣の奉行」を差し止め、すべてを「叡襟」(天使の御心)で決定する。もしこの決定に従わず、なお叛逆を企てたならば命を落とすことになるだろう。格別の功績を挙げたものにとっては褒美を与える。以上である。」と訳されている。また、坂井孝一氏は「義時の奉行を止めさせ、後鳥羽の意思で政治を行えば御家人の願いも叶えられる。つまり義時排除という一点で、御家人たちと後鳥羽院の利害が一致すると言う理論である。」また、「賞罰と御家人の恩賞と記述され御家人の心をつかむに十分な院宣と言えよう」と記述されている。
ここで私見だが、後鳥羽院が鎌倉幕府と執権の北条義時が義時朝臣、「奉行の仁たるべきかの由、思し食(おぼしめ)すところ」として後鳥羽院の手中に納めようとしていた点があり、そこには、大きな東国武士に対する誤解があったと思われる。将軍及び御家人は朝廷から官位を頂いているが、実質は将軍としての鎌倉殿は東国武士たち御家人等が、朝廷に対し武士の半独立的立場を確立した形態であり、「御恩と奉公」所領安堵による忠義(合戦に赴く等)により、ここに主従関係が成立しているわけである。したがって、後鳥羽は既成事実的に「義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食(おぼしめ)すところ」、すなわち主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ、では誰が主君なのか。これは後鳥羽を指した見方ではないかと考える。鎌倉幕府内では将軍が主君であり、幕府家政機関として長が執権であるため、執権の人事権は、本来将軍に在る。
『吾妻鏡』承久三年五月十九日条、「北条政子、北条義時・時房・泰時・前大官領禅門(覚阿・大江広元)足利義氏が集まり評議された。北条正子が御家人たちを御簾の側に招き、秋田城介・安達泰盛を介して指示して言った」。北条政子の声明文は、「「皆心を一つにして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍を征伐し、関東を草創してより以降、官位と俸禄と云ひ、この恩既仁山嶽よりも高く、溟渤(めいぼつ:果てしなき広い海)よりも深し、報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義を討取り三代将軍の遺蹟を全うすべし。但院中に参らんと慾する者は、只今もうしきるべし。」と記され、武家が後鳥羽院の御意向に背いた事になった原因は、舞女亀菊の新政により摂津国長江・倉橋両庄の地頭職を停止するように度の宣旨が下されたところ、義時が承諾せず、これは「幕下将軍(源頼朝)の時に勲功の恩賞を受けて補任したものは、特に過失がないのに更迭することはできません」と申したので、御怒りが激しかったため」と記されている。
『承久記』慈光寺本では、政子が館の庭先まで溢れるばかりの御家人を前に涙ながらの大演説を行い御家人たちの心が動かされ、北条義時を中心に東国武士を終結させることに成功した事が記されている。心動かされた有力御家人の一人武田信光が出陣後、隣国の小笠原長清に対し「鎌倉が勝てば鎌倉に着き京方が勝てば京方に付く」野が武士の習わしと公言し、北条時房から恩賞の約束状が届けられると積極的に進軍したという。東国武士の抜かりのない点も記されている。
北条政子の御家人の面前で鎌倉幕府創設以来の頼朝恩顧を訴え、「讒言(さんげん)に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとして、実朝の偉業を引き継いでゆくよう」命じたことで動揺は収まった。そして、政子の卓越した人心の掌握により、御家人達は、一致団結する事になる。これらの事からも鎌倉幕府の形態を掌握し、主体を形成していたと考える。鎌倉幕府草創から最大の危機は、政子を中心として、組織化された重臣たちが適材適所に能力を用い、対後鳥羽院・朝廷との難局を打開していくことになる。 ―続く