鎌倉散策 『吾妻鏡』に見る北条執権体制 十、後鳥羽院の策略 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 後鳥羽院は、和田合戦後、北条氏に不満を持ち対抗する御家人を取り込んで、幕府内での北条氏と御家人を分断することを試みる。その勢力として北条氏と三浦氏を考え、北条時房は、失敗したと考えられ、『吾妻鏡』承久二年(1220)一月十四日条において、北条時房の次男時村と三男資時が急に出家し、突然の事で人はこれを怪しんだ。と言う記載があり、時房の子の四人中二人が出家したことは、家にとって大事なことで、在京が多かった時房に後鳥羽の工作による何らかの影響が生じたのではないかと推測するのだ。そして、それ以降の記述がない。また、この承久二年の記事が、その後、平凡な日常記事として少なくまとめられていることに不快感を持つ。

 三浦胤義は、三浦義澄の末子の九男であり、三浦義村の弟にあたる。後鳥羽院は、在京中の「平判官」胤義を取り込んだ。胤義の妻は「一品房昌寛(頼朝の右筆)」の娘で、胤義の妻になる以前は「故左衛門督殿」、二代将軍頼家の側室であり、三男栄実、四男禅暁を産んでいる。しかし、頼家は、信頼していた比企能員と若狭局、子の一幡を比企の乱で北条時政に殺害され、頼家は幽閉先の修禅寺で義時の配下にに殺害された。『承久記』「慈光寺本」では、「胤義は再婚後に日々涙で暮れる妻を見て都に上がり、院に仕えて鎌倉に一や貼って妻の心を慰めたいと思っていたとされるまた『承久記』「古活字本」には「大番ノ次デ在京シテ候ケレバ」と有り、任期が明けても在京していたとも読み取れ、在京の経緯には不明点が多い。

 

 この胤義という男は、文治元年(1185)頃の生まれとされ、一品房昌寛の娘を妻に娶っているが、その時期は定かではない。元久二年(1205)の畠山の乱、牧氏事件に兄義村と共に出陣し、和田合戦時には、和田義盛に与する起請文を書いた義村の裏切りに加担し、義村・胤義兄弟が話し合い、『吾妻鏡』では健保元年(1213)五月二日条に義盛が襲撃する前に「累代の主君を射るならば、きっと天罰は免れないだろう。速やかに先非を悔い改めて…北条義時邸に参上し、義盛がすでに挙兵したことを申した。」とする。胤義二十九歳頃であり、比企の乱から十年たっていた。その間に一品房昌寛の娘を妻に娶っていると考えられるが、子が義有、高義、兼義、胤連、胤泰がおり、おそらく元久二年(1205)の畠山の乱前後に娶ったと考える。『吾妻鏡』健保六年(1218)六月二十七日条に源実朝の差大将拝賀として参列しているため上洛はその後と考えられる。承久三年(1221)六月一日十五日条に承久の乱最後の戦いで西山の木島(京都市右京区太秦の木島坐天照御霊神社)で胤義と胤重・兼義親子が自害した。したがって一品房昌寛の娘との子として元服後の十五歳から十八歳ぐらいと考えられる。それらを考慮すると和田合戦時には兄義村に追随して戦ったが、子息が育つにつて上洛し後鳥羽院に仕えたと考えられる。胤義は右衛門尉で院に仕え検非違使を兼任するが、兄の三浦義村は和田合戦において駿河守(国司)を与えられたため、義村の方が上位であった。

 

 『承久記』「慈光寺本」では、胤義が兄義村に書状を送り、義時を油断させる計略をうければ討つのも簡単だと秀康に語ったとする。報告を受けた後鳥羽は「急ぎ軍の僉議仕れ(急いで合戦についての評議を開始せよ)」と命じた。「古活字本」では挙兵計画の軍議に参加した胤義は「朝敵になった以上義時に味方する者は千人もいまい」と述べ、藤原北家秀郷流藤原秀宗の長子で、院北面・西面の武士として院に仕えた藤原秀康からの挙兵計画の参加を受けた時においても兄・義村は「鳴呼ノ者」なので日本国惣追捕使(にほんそうついほし)に任ぜられるなら必ず味方すると確約し、楽観的な見通しを述べている。胤義は兄義村に対し確執を持っていたともされ、本来は不仲であったとされる。

 胤義は、兄義村の尼将軍・北条政子と執権・北条義時の関係を安易に考えていたと言わざるを得ない。後鳥羽上皇は三浦胤義に兄である三浦義村に日本国惣追捕使を約束し、大江広元の子の大江親広、有力御家人の小野盛綱、佐々木広剛を味方に付け、官宣旨を出すことにより兵力が増強できると楽観的なものだった。武勇に優れた院ではあるが、治承寿永の乱後も奥州合戦、比企の乱、畠山重忠の乱、和田合戦など多くの合戦を行った東国武士の本質を見定めることが出来なかったと考える。また、清和源氏義満流平賀氏の一族の大内惟信、大江広元の長子・大江親広、御家人の山田重忠、小野盛綱、佐々木広綱等の幕府御家人が後鳥羽院に与した事から、院宣による武士の増員が確実なものと考えた。『吾妻鏡』では、これまでの経緯が記載されていないため『承久記』の「慈光寺本」、「古活字本」に頼らざるを得ないが。この時期から鎌倉幕府内での対応と経緯は『吾妻鏡』が簡潔に記載されている。五月十八日条には、寅の刻(午前四時頃)に太白星(金星)が螢惑星(火星)に接近した(二尺の所という)。

  

 同年四月十九日条、午の刻(午後零時頃)に大夫尉(伊賀)光季の去る十五日の飛脚が関東に到着して申した。「このところ院(後鳥羽院御所)の内に官軍が召し集められています。そこで前民部少輔(大江)親広入道が昨日(後鳥羽院の)召喚に応じました。光季は右幕下(藤原公経)の知らせを聞いていたため、支障があると申したので、勅勘を受けそうな情勢です」。未の刻(ひつじ:午後二時頃)、右大将(西園寺公経)の家司である主税頭(ちからのかみ:三善)長衡が去る十五日に遣わした京都の飛脚が(鎌倉に)到着した。「昨日(十四日)、幕下(公経)と黄(藤原)実氏は、(後鳥羽院が)二位法印尊長に命じて、弓馬殿(御所内の射場殿)に召し籠められました。十五日の午の刻(午後零時頃)に官軍を派遣して伊賀廷位(光季)を誅殺され、按察使(あぜち:藤原)光親卿に勅して右京兆(北条義時)追討の宣旨が五畿七道に下されました」。関東分の宣旨の御使者も今日、同様に(鎌倉に)到着したという。そこで捜索したところ、葛西が谷の山里電の辺りから召し出された。押松丸(藤原秀康の所従という)と称し、所持していた宣旨と大監物(だいけんもつ:源)光行の副え状、同じく東国武士の功名を注進した文書などを取り上げ、二品(政子)邸宅、御堂御所で開いて見た。また同じ時に廷尉(三浦)胤義の私的な書状が駿河前司(三浦)義村のもとに到着した。これには「『勅使に応じて右京兆(義時)を誅殺せよ。勲功の恩賞は申し通りにする。』と命じられました。」と記されていた。義村は返事をせずにその使者を追い返すと、その書状を持って義時のもとに赴き言った。「義村は弟の叛逆には同心せず(義時の)味方として並びない忠節を尽くします」。その後、陰陽師(安部)親職・宣賢・晴吉らを招き、午の刻(午後零時頃:最初の飛脚が到着した時刻である)と定め卜筮(ぼくぜい)を行った..関東は太平であると一同が占った。

 

 『承久記』「慈光寺本」では、京都守護伊賀季光を誅殺した軍勢が一千余騎と記され、光季配下の武士が八十五騎で、自分は最後まで戦って討死する覚悟であるが命を惜しいものは逃げるよう伝えた。これを聞き半数以上が逃亡し残った者は政所ノ太郎・治部次郎ら精鋭の武士二十九騎と光季と十四歳の次男光綱親子合わせ三十一騎であり、その理由は不明だが、官軍に囲まれた京から抜け出し、鎌倉へ早急にこの知らせを確実に届けるための思惑だったと考える。『吾妻鏡』では「一千七百騎が集結し、その内の八百余騎の官軍が光季の高辻京極の家を襲撃した。」と記された。また「慈光寺本」では、東国に院宣を下したのは武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村の八名であったと記される。 この八人の中には在京経験が多く後鳥羽院との接点がある者、同族内での競合・対立する者、幕府に影響力のある重臣の御家人達で、この中で一人でも後鳥羽院に与する者が出ると幕府に混乱を与える絶大な効果を発揮したと考えられる。そして、後鳥羽院は、この院宣を過信した。この院宣は、届けられることはなかった。―続く