鎌倉散策 『吾妻鏡』に見る北条執権体制 九、後鳥羽院「神器無き即位」の不徳 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久元年(1219)七月十九日、三寅二歳、(後、源経頼)鎌倉に下向した。政所始めが行われ、三寅は幼いため二品禅尼(政子)が理非を簾中で裁断するという。新たな鎌倉幕府北条執権体制が整った。しかし、京の後鳥羽院の焦りと苦悩が表面化していくことになる。

  

(写真:鎌倉 大倉幕府跡碑と東御門跡碑)

 同二十五日条、京から伊賀左衛門尉光季の使者が鎌倉に着く。去る十三日、内裏守護、馬権守・源頼茂(摂津源氏、三位源頼政の孫)が後鳥羽院に背いた事で、西面武士に攻められ仁寿殿に籠り自害したという。この時、宜陽殿・校書殿等の内裏の多くの施設が焼失している。『吾妻鏡』には院に背いた内容は記載されていない。諸説では頼茂が将軍に付くことを図ったが、三寅が将軍としての東下したために望みを絶たれた為とされる。しかし頼茂は鎌倉幕府在京御家人であり、幕府内の問題のため、西面武士を動かすことに疑問があり、本来ならば、京都守護がおこなうことである。また後鳥羽院が鎌倉幕府(義時)の調伏のため加持祈祷を行っていた事を頼茂が知った為、院に殺されたともいわれ、祈祷が行われたと言う最勝四天院が、その後すぐに取り壊されている。『愚管抄』では、自身が将軍になろうとしたことが露顕し、後鳥羽院は在京の武士などを集め頼茂を院に呼びつけられた。しかし頼茂が参上しなかったため無い大内裏を取り囲み攻めたところ、頼茂が内裏に火をかけたので大内裏は、焼けてしまった。左衛門尉盛時が頼茂の首を取って後鳥羽上皇に差しだした。頼茂が説得して仲間に入れようとした伊予国の河野と言う武士がかくかくと陰謀の内容を話したと言う

 

(写真:京都御所)

 「神器無き即位」を行った後鳥羽帝は、劣等的な意識の中、屈辱感と自己嫌悪がその後の行動に反映したとされる。独善的な性格であったとされるが、武芸や和歌などの文芸にも取り組み卓越した才能を開花させていた。また、後鳥羽院は、西面の武士を新たにつくり、伝統的な宮中での慣例行事などを復興させ、王朝の権威を上げ、自身が真の天皇であることを周囲に認めさせるよう行ったとされる。その後鳥羽院の象徴とされる大内裏の焼失は、病床に伏せるほどの衝撃であったという。事実、八月半ばから一か月以上病床に伏している。

 

(写真:京都御所、ウィキペディアより引用後鳥羽院像)

 後鳥羽は、内裏復興に向けて承久元年八月四日に臨時除目を行い、下北面の(北面の武士のうち六位の者)院近臣文武両面で後鳥羽に厚遇され支えてきた藤原秀康に、北陸道・山陽道の国務を担当させた。これは、内裏の再建に向けた人事とされている。そして、相次いで再建を促す除目を出して造内裏行事所を発足させ、膨大な費用がかかる国家的大事業に至った。承久二年(1220)には、造内裏役と言う一国平均役を荘園・公領に賦課させる勅事院事(ちょくじいんじ:勅院事)が下された。一国平均役は、一国単位で一律に課された臨時の租税・課役を荘園・公領に賦課する制度である。しかし、国司・荘園領主・地頭を問わず各地で造内裏役への抵抗が起こり、後鳥羽院が内裏焼失の原因と考えた幕府も宣旨の命に従わなかった。源頼茂が将軍就任の謀叛、あるいは後鳥羽院に背いた事で後鳥羽が西面武士、あるいは在京武士に頼茂を誅殺した事は、将軍就任の謀叛であるならば、幕府内の問題である。しかし、それに兵を用い誅殺したのは後鳥羽院であって、自身の不徳の致すところである。ここで後鳥羽院の頼茂の関与が、院にとって不都合な事があったためと推測されるのである。この当時の内裏造営において、保元二年(1157)の大内裏、建暦二年(1212)の閑院内裏があるが、それに比べると宣旨が下されてから事始めにかなりの期間がかかっている。また保元の造営の際に「保元之免除証文」を発給された地や後鳥羽の近臣である有力者卿二位・尊長の口利きで北野社・延暦寺・円勝寺・最勝四天王院等、また、新たに免除認定を出した。他方それらを有する事のない国司・領家・地頭は、その宣旨に対し拒否し始め、特に北陸道の越後守護北条義時、加賀守護の義時次男・朝時らの影響で地頭が像内内裏役拒否に影響したと考えられる。

 

(写真:ウィキペディアより引用 北条政子像、北条義時像)

 承久元年から二年には、鎌倉においても鎌倉の大火、旧実朝邸の焼失、窟堂周辺と大町以南の火災により焼失、七月には、鎌倉中の民家が、近年類を見ない風雨水害により民家が倒れ、洪水により流され河川近くに住んでいた者が多数死亡している。京においては、承久二年に清水寺本堂焼失、内裏の陽明門焼失、祇園社焼失等が起こった。幕府にとっても鎌倉の修復を優先せざるを得ず、内裏造営の協力は、後回しになったと思われる。京も度重なる火災焼失の為に内裏の造営が停滞したと考える。しかし後鳥羽院は、建暦二年(1212)の閑院内裏造営に協力した実朝の幕府との違いに苛立ちを募らせたようで、造営をいったん中止し造内裏事業所を解散させた。これは、内裏造営の遅延は幕府が宣旨の命に従わない事に対し、まず統制を行う為に標的を幕府執権北条義時に定めたと考える。

 『吾妻鏡』承久三年三月二十二日条、波多野朝定が二品(政子)の使者として異世代神宮に出発した。これは今朝、政子に(神仏の教えを受ける)夢想があり、表面が二丈ばかりの鏡が由比浦の波間に浮かび、そのなかでこえがした。「我は(伊勢)第神宮である。世の中を見ると世は大いに乱れて兵を集める事態となる。(北条)泰時が私を瑩(かがや)かせば太平を得るであろう」。そこで(政子は特に信心を厚くした。朝定は祠官(母が下宮の神官荒木田盛長の娘)の外孫であり、特に使節(の命)に応じたという

 

(写真:京都東寺)

 同年四月十八日条、京の使者が大官令(覚阿、大江広元)も基に到着した。去る二十日、急に(順徳天皇の第四皇子・仲恭天皇への)御譲位があった(年は四歳)という

 同年四月十九日条、午の刻に大夫尉(伊賀)光季の去る十五日の飛脚が関東に到着して申した。

「このところ員(後鳥羽院御所)の内に官軍が召し集められています。そこで前民部少輔(大江)親広入道が昨日(後鳥羽院の)召喚に応じました。光季は右幕下(藤原公経)の知らせを聞いていたため、支障があると申したので、勅勘を受けそうな情勢です」。…

 

(写真:鎌倉 鶴岡八幡宮)

 承久三年(1221)五月十四日、武勇に優れた後鳥羽院は幕府の体制が弱くなったと判断し、「流鏑馬ぞろい」と称し千七百騎ほどの兵を集め京都守護職の伊賀光季を攻め、光季は、わずかの手勢で応戦した。光季はここで討ち死にするが、下人を鎌倉に事の次第を伝えさせ、わずか五日で鎌倉は事態を知ることになる。五月十五日、後鳥羽院は、幕府討幕ではなく、北条義時追討の宣旨が出した。後鳥羽上皇は三浦義村の弟胤義(三浦義村を日本国惣追捕使(にほんそうついほし)に胤義に約束)や、大江広元の子の大江親広、有力御家人の小野盛綱、佐々木広剛を味方に付けた為、官宣旨を出すことにより兵力が増強できると楽観的なものだった。伊賀光季の早急な知らせで事態を知った幕府と御家人等は官宣旨が出され、大いに動揺することになる。 ―続く