鎌倉幕府三代将軍源実朝が暗殺され東国武士たちは、騒然となる。しかし、京の後鳥羽院にとっても、実朝を失ったことは、自身の権勢において不安を募らせることになった。この実朝暗殺に対し、様々な黒幕説が唱えられるのが、執権の北条義時、公暁の乳母夫である三浦義村、そして後鳥羽院説など挙げられている。
『吾妻鏡』承久元年(1219)正月二十七日条で「夜になり雪が降り出し二尺ほど積もる。実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参られた。酉の刻(午後六時頃)に御所を出発された。実朝が神宮寺の楼門に入った時、義時は急に真心が乱れ、実朝の御剣役を(源)仲章朝臣に譲り退出され、神宮司で正気に戻られた後、小町の自邸に帰られた。夜になり神拝の儀式が終わり、しばらくして実朝が退室したところ鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の近くに隙を見て近寄り、剣を取りだして実朝を殺害した」とある。当日に御剣役を代わり、命が長らえた事で『吾妻鏡』に長きに順序立て、凶兆の兆し、義時の夢の中での戌神によるお告げ、その霊夢により創建された大倉の覚園寺の薬師堂に薬師如来が安置された事など、必要以上に弁明を記載している。誰もが義時を疑う事に対する釈明であったと考えている。私見として、釈明せざるを得ない義時の罪業が比企野乱、二代将軍頼家の暗殺、畠山重忠の乱、牧氏事件、和田合戦等の関与また首謀者として見られることが考えられるからである。
乳母夫の知略にたけた三浦義村においても、将軍実朝の後見としての尼御台(政子)と執権義時との信頼関係と現状の地位を揺るがす必要が無く、義村にとってはおもいがけない迷惑なことであったと考える。また、後鳥羽院と実朝においては、千幡の元服時に実朝の名を与えたとされ、実朝が後鳥羽院を信頼し主従関係的な要素を強く示しており、後鳥羽院にとっては自身の権勢を保つうえで、軍事・警察権をになう忠実な臣下としてとらえ、実朝の存在は治安を司る必要な人材であったと言える。実朝の官位の昇級はその権威を挙げるために後鳥羽院が行ったとされる。私自身は、義時は北条にとって得策でない限り動かず、政子の子・実朝の健在こそが北条にとって有益な事であったと思う。通説の公暁の単独による父頼朝の仇と自身の将軍職の就任を狙ったと考えるが、そこには、幕府内で将軍後継問題が親王将軍の擁立に決定した事で、公暁が将軍になる手段として強行に走ったと考える。しかし。義時が、この暗殺計画を知っていたのではと思える時もあるのは事実だ。
実朝暗殺後、新将軍が空位であった。建保六年(1218)二月四日に御台所北条政子が実朝病気平癒の祈願で熊野詣の為に上洛し、『吾妻鏡』では、その事だけが記載されており、その後、実朝暗殺後に約束の親王下向の要請を行っている。その空白部を補うのが『愚管抄』で、その際に実朝の後継問題について記載されている。後鳥羽院の親王を将軍に据える親王将軍の話が、北条正子の熊野詣で上洛した際に後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面していた。「実朝の後継に後鳥羽上皇の皇子を将軍に求めたが卿局は自身が養育した頼仁親王を推して、二人の間で約束がなされていた」と記述されている。また、実朝は、将軍を親王将軍に譲り、自身は後見としての地位を築こうとしたとされる。幕府と朝廷の協調関係を継続させ、さらに幕府の権威を高めようとしたと考えられるが、そこに北条氏の位置づけや義時に影響する物はなく、この継問題は政子を中心に義時等の北条氏と大江広元等の考えであったと思われる。
後鳥羽院は、高倉天皇の第四皇子で、母は坊門信隆の娘・殖子である。後白河院の孫で平家と共に壇ノ浦で身を投じた安徳天皇の異母弟に当たる。勅命で『新古今和歌集』の編纂を命じ、和歌や蹴鞠、武術、そして刀剣造りまで興味を持つ文武両道、多芸多才の院であった。
それは後鳥羽院が「神器無き即位」を行った事に由来すると言われる。」壇ノ浦の戦いで剣璽(けんじ)が海中に没し回収されることが出来ず、安徳天皇が退位しないまま元暦元年(1184)七月二十八日に四歳で後鳥羽帝は「神器無き即位」を行った。承元四年(1210)順徳天皇践祚(せんそ)に際しては、三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなし用いられている。文治元年(1187)九月二十七日に佐伯景弘の宝剣探査失敗の報告を受け、宝剣探査は事実上断念された。「神器無き即位」を行った後鳥羽帝は、劣等的な意識の中、屈辱感と自己嫌悪がその後の行動に反映されているとされる。それが、幼少期からその屈辱感に対して、あらゆる武芸や和歌などの文芸にも取り組み卓越した才能を開花させていた。また、後鳥羽院は伝統的な宮中での慣例行事などを復興させ、王朝の権威を上げ、自身が真の天皇であることを周囲に認めさせるよう行ったとされる。しかし、後鳥羽院の治世を批判する際に「神器無き即位」が不徳を結び付けられることもあった。藤原定家の『明月記』建保元年四月二十九日条に後鳥羽上皇と順徳天皇が度を越した蹴鞠好きを批判した際に神器の不在に原因を求め近代においても武士の台頭の原因として、後鳥羽院が「虚器」を擁していたことに求める意見が記されている(池田晃淵「承久の乱の起因に就いて」『史学雑誌』第七巻第二号、1896年)。
その屈辱感を克服するために強力な王権の存在を内外に対する強硬的な政治姿勢は、承久の乱の要因になったともされる。北条義時において誤算が生じたのは、後鳥羽院の親王将軍の拒否である。この時期は、朝廷と幕府の協調関係が継続しており、東国武士を中心として樹立した鎌倉幕府の創立後、東国において守護、地頭を置き、権力を掌握していった。しかし、西国においては、まだ朝廷の権力が強く残り、平家に加担した貴族、武士の所領に関しては地頭を置く事が出来たが、公領、貴族・寺社の荘園には設置することが出来ず、幕府と朝廷の二元政治が続いていた。頼朝が幕府を樹立させた目的とし、天皇による治世を挙げながら東国武士を束ね、軍事・警察権の掌握と各国に守護・地頭を設置し、後に拡大的に武士の統治の役割を認めさせることであったと考える。武士は御家人として将軍(武士の棟梁)の臣下と位置付け、要するに東国武士の自主独立権に近いものを形成した事であった。東国の所領・荘園などは幕府地頭が置かれ、地頭の取り分を上げるため、荘園・国衙領地。所領の農業生産率は上がっており、この時期は、年貢・徴税が確かに行われていた。年貢・徴税等の未納は、幕府が解任権を持ち地頭を解任させることが出来、幕府と朝廷との役割分担が正常であった事を示す。
平安中期に荘園は免田型荘園の増加で、在地武士たちが徴税を免れる代わりに貴族や寺社に寄進し農地の荘官・管理者として生産と開墾により安定を求めた。寄進された土地に対し、貴族や寺社の領家・本家は、土地に慣れ親しんだ在地武士を荘官に当て安定的に年貢を納めさせることを望んだが、荘官の任命権は領家・本家が持つため、常に顔色を見なければならなかった。また、平安後期には、貴族や寺社が従来の農地と開墾予定地を東西南北に杭で境界を示し、領域型荘園が拡大する。在地武士達が荒野を開墾できずに不満を抱きく。そこに平家の荘園が拡大し、東国武士が東国の自主独立的な構想から源頼朝を立てて挙兵に従ったのである。鎌倉幕府の創立により治安の安定は荘園制度の崩壊を免れることになった。鎌倉幕府後期には、元寇の襲来により幕政も不安定になると、悪党の地頭の年貢・徴税の未納などが発生し、地頭と荘園領主や朝廷貴族が紛争を起こすようになる。したがって、後鳥羽院、朝廷にとって鎌倉幕府に権威と権限を与え治安維持により安定した徴税・年貢の収納を行う協調関係であった。しかし、実朝の暗殺により、後鳥羽院は、実朝を擁護できなかった北条義時と今後の治安維持に対して不信感を抱いたのである。 ―続く