後鳥羽院は、実朝を守ることが出来なかった事で北条に対して、義時に対し怒りの矛先を向けた。将軍継承問題については、『吾妻鏡』では、建保六年(1218)二月四日条に御台所北条政子が実朝病気平癒の祈願で熊野詣の為に上洛した事のみ記載され、その後、実朝暗殺後に約束の親王下向の要請を行っている。その空白部を補うのが『愚管抄』で、その際に実朝の将軍後継問題について記載されている。後鳥羽院の親王を将軍に据える親王将軍の話が、北条正子の熊野詣で上洛した際に後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面していた。「実朝の後継に後鳥羽上皇の皇子を将軍に求めたが卿局は自身が養育した頼仁親王を推して、二人の間で約束がなされていた」と記述されている。実朝暗殺後の承久元年(1219)二月十三日、幕府は、信濃前司の二階堂行光を京に上洛させ、六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)のどちらかを将軍として下向されるよう禅定二位家(政子)の奏上を伝えた。しかし、『吾妻鏡』承久元年閏二月十二日条に後鳥羽院から「親王のどちらかを下向させよう。ただし今すぐにはいかない。」と命じられたと記されている。またその後、後鳥羽院の執拗な嫌がらせが続いた。
ここで『吾妻鏡』の承久元年(1219)二月十五日条に「阿野冠者時元〔源頼朝の異腹弟の法橋(阿野)全成の子。母は北条時政の娘(阿波局)〕が多勢を率いて城郭を奥深い山に構え、宣旨を賜って東国を支配しようと企てている。」と駿河から飛脚が知らせた。同十九日、禅定二位家(政子)の御命令により、右京兆(北条義時)が金窪行親以下御家人等を駿河に差し遣わされた。これは、阿野冠者時元を誅殺するためである。」と記されている。時元は父・全成が建仁三年(1203)甥である二代将軍・源頼家により謀叛の嫌疑を受け誅殺された。母が北条時政の娘・阿波局であるため北条時政や政子により連座を免れ父・全成の遺領である駿河国の国東部の阿野荘に隠棲していた。実朝死後、清和源氏の嫡流の血筋を引く男子が複数在命であったが、後鳥羽院の宣旨を受け将軍を名乗る事を恐れ、また政子を中心とした幕府執権体制下で親王将軍擁立を要請していた事で、源氏の血統を粛清していったと考えられる。同月二十二日条に「派遣された勇士が駿河国安野郡に到着し、安野次郎・同三郎入道を責めたところ防御側が劣勢となり(阿野)時元と一味はすべて敗北した」。同二十三日条に「酉の刻に駿河国の飛脚が(鎌倉)に到着し、阿野(時元)が自害したと申した。『承久記』においては、金窪行親以下御家人等が奇襲を仕掛け、同様に自害したと記している。鎌倉時代誌研究者の永井晋氏は『吾妻鏡』では謀叛と表現するが粛清の討手が向けられた事を知って決起した可能性を指摘している。この事は北条政子に取って実子の実朝が亡くなり、北条氏の今後を見据えると親王将軍の擁立が最適であり、源家の血統とは決別したことを示している。また、母である阿波局は、将軍実朝の乳母で実子よりも実朝にすべてをかけて溺愛していた事が窺われ、時元を弁護した記録もない。時元は、幸の薄い子であったように思われる.。『吾妻鏡』によると阿波局は、嘉禄三年十一月四日に亡くなり、北条泰時が伯母に当たると言うことで三十日の喪に服している。
『吾妻鏡』承久元年閏二月二十八日条、京都守護の伊賀光季からの飛脚が鎌倉に着き申した。「去る二十日の戌の刻に頭中将(一条信能)の青侍が大番役の武士等と争いを起こし、同二十二日の夜にその武士等が信能の邸宅を襲撃する風聞があったので光季が急行して制止を加えたため静まりました。しかし検非違使庁からの首謀者が呼び出されております」との事である。一条信能は、後鳥羽院近臣の参議で一条能保と源頼朝の妹とされる坊門姫との間の子息であり、健保六年六月二十日の実朝左近衛大将就任の拝賀から実朝暗殺後も鎌倉に留まっていた。私見であるが、西国の御家人を使い信能の若く官位の低い青侍に争いを起こさせたことが考えられる。後鳥羽院が近臣の信能がに対する早く上洛する旨の手段であったとも考える。
二十九日条に一条中将信能が二品(政子)の御邸宅に参って申した。「右府(源、実朝)との昔からのご縁を忘れていないので、今まで(鎌倉)に祇候していましたが、(後鳥羽院が)たいそう不快に思われているうえに、去る十九日には官職を解くとのご決定があったと言います。ならば京都に帰るべきでしょうか」。「よく考えずに京都に帰られてはいけません。」と政子は返答されたと言う。後鳥羽院の必要以上の挑発が繰り返された事が窺う見ることが出来る。また、後鳥羽院と幕府との関係は、さらに不信を募らせることになった。後、京に戻り、後鳥羽院の近臣として復職しているが、承久の乱においては、官軍側に与し、異母兄・尊重と共に芋洗いの攻防で幕府軍と戦うが敗れ、京にて捕縛され、鎌倉に護送中の美濃国遠山荘で斬首されている。
親王将軍に対して『愚管抄』「頼経東下」では、[この御子を将軍に所望すると言う事を後鳥羽上皇がお聞きになり「どうして先々この日本国を二つに分けることになるようなことを前もってしておいたりできようか。何事であるか」とあるまじきことにお思いになり、「そんなことはできない」と仰せになった。]と記されている。またその御返事に「将軍にと望むものが人臣の家柄の人であるなられば、関白摂政の子などであっても申し出に従うであろう」などと言う、直々のお言葉があったと記されている。そして後鳥羽院は、三月九日、(藤原)忠綱朝臣が上皇の使者として鎌倉に下向し、院の愛妾亀菊の所領である摂津の長江(大阪府豊中市豊南町付近)・倉橋(稲川に対岸する兵庫県尼崎付近)の地頭職の撤廃と御家人である西面武士で御家人の仁科盛遠の処分の取り消しを条件とした「院宣」を伝えた。北条義時は、地頭の解任権は幕府に在るため、院の「院宣」による対応は、御家人の不信を買い、幕府の根幹を揺るがす事であるため拒絶を決めた。この決断は、義時の決断とされているが、実質は政子を中心とした執権義時を始め幕府の重臣の北条時房、大江広元、三善義信、二階堂行光、三浦義村、安達景盛等の提言によるものと思われる。同十五日、二位家(政子)の使者として北条時房が一千騎を伴い上洛させ、武力的背景により将軍下向を求めた。朝廷と幕府において、新しく後継の新将軍の調整に難航する。
『吾妻鏡』では、承久元年(1219)四月から六月の時期が決失しており『愚管抄』に頼らざるを得ない。『愚管抄』は、この言葉を手掛かりとし、またほかでもない三浦義村の思いつきで、「このうえは、他に何がありましょうか。左大臣殿(九条道家)の御子三位少将(教実)を上京してお迎えしてきましょう」と言った。この考えに従って重ねて申し出たのは「左府(道家)の子息は頼朝の妹の孫が生んだ子ですから血のつながりもあります。皇子をお迎えする事がかなえられないのであれば左府の子息を下してもらい、育て上げて将軍とし、君の御守りと模すべきでありましょう」という意見であった。結局、西園寺公経大納言が養育していた孫の二歳になる三寅が占いや星の巡り合わせな等から叶っているとの事で関東の下向が決まった。三寅の名の由来は正月虎の月虎の年(1218)寅の刻(午前四時頃)に生まれたため、その幼名が付けられた。幕府は皇族の将軍をあきらめて摂家将軍九条道家と西園寺公経の娘掄子との間の子・三寅(後の九条頼経)を迎え、北条政子が自ら後見とし、執権北条義時を中心とした政務を執る執権体制を整えた。幕府にとっては、頼朝との血縁関係があり、幼少であるため北条にとっては、後見として従来の地位を守ることが出来る得策であったと考える。しかし朝廷と幕府間では、しこりが残る選択であった。 ―続く