鎌倉散策 『吾妻鏡』に見る北条執権体制 六、将軍実朝と執権義時 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 和田合戦の後、建保三年(1215)正月六日、入道遠江守従五位下平朝臣(北条時政)が北条郡で死去した(享年七十八歳)。畠山重忠誅殺・牧氏事件での実朝暗殺計画などから初代執権を義時とする旨もあり、時政の孫である三代執権北条泰時は、頼朝・政子・義時らを幕府の祖廟として参詣を行い年中行事も事欠かせなかった。しかし『吾妻鏡』において時政の仏事が行われた記載もなく、時政の存在は北条氏から否定された。そして、この年は平穏に神事、仏事が滞りなく行われた。

 

 三代将軍源実朝と幕府執権北条義時との関係は、和田合戦後も従来通り良好な関係であり、健保四年(1216)四年、将軍実朝も二十五歳になり、執権北条義時は五十四歳になっていた。実朝は和田合戦後の将軍としての立場、重責も理解していっただろう。次第に幕政に加わり、裁断を加えていく。四年四月二十二日付の将軍家政所下文に政所別当の中原広元、源仲章、北条義時、源頼茂、大内惟信、源頼広、北条時房、中原師俊、二階堂行光の九人が別当署判の位置に列挙されている。政所別当は、承元五年(1209)の開設以来、義時、時房、親広が就いていたが、後に師俊、仲業、行光が加わり、この度に至った。実朝の側近や源氏一門を加える事で将軍権力の拠点の政所に実朝の意向を反映させ、将軍親裁の強化を図る意図があったとしている。しかし、仲章、惟信、頼茂が在京することが多く、彼らの将軍家政所下文は五通しか存在しない事から、将軍実朝と執権義時が協調するのではなく、牽制しあう関係にあったとも考えられている。要するに義時の執権としての政務に異を称えさせる事の無いように源氏諸将を組み入れたと言わざるを得ない。また、源氏一門の惟信、頼茂、大学頭(だいがくのかみ)の仲章は後鳥羽院に近く、朝廷に対し和田合戦における鎌倉の治安の不信を払拭する狙いがあったとも考えられる。

 

 朝廷と幕府との関係は、頼朝の挙兵後寿永二年十月宣旨」、「文治の勅許」などにより、その軍事・警察権力で安定した所領・荘園の徴税を行なわせ、幕府は朝廷からの権威と将軍推挙により御家人諸士に官位・叙任を与える事で御家人の統率を行う。そして少なくとも武士の独立性を得ていたことが最大の目的とした関係であった。幕府は、後鳥羽院の顔色を見たとも考えられる。

 建保四年(1216)八月に実朝は、さらに左近衛中将を兼任する。九月になり実朝は右大将に任じられる事を思い、『吾妻鏡』では、義時は実朝がそれに応じた年齢に達しておらず早急な昇進は過分であるため大江広元から実朝に諫めてもらうよう依頼した。中納言職は摂関家に与えられ、頼朝の跡を継いでいる。さしたる勲功もなく昇進することは、「臣下は自分の器量を見極めて官職を受ける」ことが望ましく過分に昇進することは「官打ち」と言われ、自らを滅ぼすと言われた。広元は御所に参り実朝に「御子孫の繁栄を望まれるならば現在の官職を辞して、征夷大将軍として徐々に年齢を重ね大将を兼任されるべきです」。と諫めるが、実朝は「諫言の趣旨は誠に感心したが、源氏の正統は自分の代で途絶える。子孫が継承することは決してないだろう。ならば、あくまでも官職を帯びて源氏の家名を挙げたい。」と言われた。実朝は、以前患った疱瘡での高熱が原因かで子息がおらず、また子がおれば、災いの元凶となることを恐れたのかもしれない。また、その後に自身の起こる災いを感じていたのかもしれない。

 

 後鳥羽院と実朝の関係は、鎌倉の治安維持を回復し、御家人諸士との主従関係を勤めた事により、再び良好な関係を構築していく。後鳥羽院は、実朝に対し信頼と支援を官位上昇という形で示したと考えられる。義時は実朝の推挙により健保四年年(1217)正月に従五位以下相模守から、従四位以下相模の守へ、そして健保五年には、名目的京官である従四位以下・右京権大夫(右京兆:うけいちょう)に昇進し、父時政の従五位以下総統の遠江守で右京権大夫北条氏の極官である歴代最高の官職であり、実朝の昇進について諫言は不可思議である。

建保六年(1218)二月四日に御台所北条政子が実朝病気平癒の祈願で熊野詣の為に上洛した。『吾妻鏡』では、その事だけが記載され、『愚管抄』では、その際に実朝の後継問題について記載されている。後鳥羽院の親王を将軍に据える親王将軍の話が北条正子の熊野詣で京に伺い後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面していた。「実朝の後継に後鳥羽上皇の皇子を将軍に求めたが卿局は自身が養育した頼仁親王を推して、二人の間で約束がなされていた」と記述されている。また、実朝は、将軍を親王将軍に譲り、自身は後見としての地位を築こうとしたとされる。幕府と朝廷の協調関係を継続させ、さらに幕府の権威を高めようとしたと考えられるが、そこに北条氏の位置づけや義時に影響する物はなく、この継問題は政子を中心に義時等の北条氏と大江広元等の考えであったと思われる。『吾妻鏡』でこの件が記載されるのは、承久元年(1219)閏二月十二日条からである。

 

 『吾妻鏡』建永五年(1206)六月十六日、七歳になった善哉(二代将軍源頼家の次子)は若宮の別当坊より祖母政子・尼御台の邸に渡り着袴(ちやつこ)の儀式を行われ、同年十月二十日には善哉を政子の命により実朝の猶子(ゆうし)とし、初めて御所内に入った。健暦元年(1211)九月十五日、善哉は十二歳で鶴岡八幡宮別当定暁の下で出家し公暁の法名を受け、翌日、受戒の為に上洛し、京都の園城寺の公胤の門弟として貞暁の受法の弟子となる。健保五年(1217)五月十一日に鶴岡八幡宮別当三位僧定業が腫物を患い死去した。そして、尼御台所(政子)の命により欠員となった別当に公暁を補任し、六月二十日に鎌倉に戻り鶴岡八幡宮別当に就いている。

 同年十月十一日、阿闍梨公暁が鶴岡別当に補任されてから、初めて神拝が行われた。また宿願の為に、鶴岡八幡宮寺で千日の参篭を行い、翌建保六年(1218)十二月五日、公卿が鶴岡八幡宮に参籠して全く退出しないまま幾つかの祈祷を行っているが、一向に髪を剃る事もなく、人はこれを不審に思ったと言う。また、伊勢太神宮や諸社に奉幣する使節を遺わされたと将軍御所中で披露されている。

 

 承久元年(1219)正月二十七日、夜になり雪が降り出し二尺ほど積もる。実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参った。実朝が宮司の楼門に入った時に義時は急に真心が乱れ、実朝の御剣役を仲章朝臣に譲り退出し、小町の自邸に戻った。夜になり神拝の儀式が終わり、実朝が退室したところ鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の脇の大銀杏の陰から近寄り、剣を取りだして実朝を殺害した。この実朝暗殺は、鎌倉中に衝撃を走らせた。和田合戦で、将軍という権力の重みを知った御家人たち武士は、その後空位となる将軍不在は、不安を呼び起こし、再び秩序が乱れる事を恐れた。 実朝の死は、源頼朝以来、幕府将軍を担って来た河内源氏棟梁の血筋をここで幕を下ろした。

―続く