北条時政には伊東入道の娘との間に、三郎宗時、北条政子、四郎義時、阿波局(阿野全成の妾)が同腹の兄弟姉妹で、母不明の弟・時房が存在している。三郎宗時は、『吾妻鏡』では治承四年八月二十日条にて、相模土肥郷に向けて出発し、付き従った武士の名に北条四郎(時政)、子息三郎(宗時)同四郎(義時)の名が記されている。二十四日条に「北条殿親子三人は、景親と戦われたためしだいに疲労困憊し、山の峰にのぼることが出来なかったので、(頼朝に)従い申すことが出来なかった。(加藤)景員・光員・景兼・(宇佐美助茂と思われる)祐茂・(堀)親家・(宇佐美)実政は(時政らの)供をすると申した。時政は「それはいけない。早々に頼朝をお探し申せ。」と命じられたので、彼らは数町の険しい道をよじ登ったところ、頼朝は倒れた木の上にお立ちになり、実平がその傍らにひかえていた。」と有り、同日その後「北条殿(時政)と同四郎(義時)は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしていた。同三郎(宗時)は土肥山から桑原へと降り、平井郷を通っていたところ早川の辺りで(伊東)祐親法師の軍勢に囲まれ、小平井の名主紀六久重によって討ち取られた。(工藤)茂光は歩くことが出来なくなって自害したと言う。頼朝の陣と彼らが戦っていた場所とは山谷を隔てているので、どうする事も出来ず、悲しみは大変深かったという。」また『源平盛衰記』では平家打倒の中心となり伊豆目代・山木兼隆邸襲撃に加わり、先導役を務めたとされる。しかし、それ以上の資料は無く、人物像に付いては定かではない。
時房については、後に記述させていただくが、義時と異腹であるが協力し、義時の後を継ぐ泰時にも協力し、初めての連署に就いている。この兄弟たちが、将軍実朝を中心に結束して畠山重忠の乱を牧夫氏事件で終息させ、新たな鎌倉幕府北条執権体制を構築したと言えよう。
北条政子と時政の後妻・牧御方との関係を見ると、寿永元年(1182)十一月十日の事であるが、北条政子は時政の後妻、牧の方から頼朝の寵妾・亀の前の事を聞き、政子が激怒し牧の方の父・牧宗親に亀の前が住んでいた伏見広綱宅を破壊させた。頼朝が後日、聞き取り怒りの余り牧宗親の髻を切った。舅の恥を思い時政は暇乞いを出さずに伊豆に下向、義時は時政に従わず鎌倉に残り頼朝が称した。また、健仁三年(1203)九月十五日千幡の乳母阿波局(政子・義時の同腹の妹)が時政の後妻牧御方に悪意があるとして時政邸においておくことは危険であると政子に告げた。政子は三浦義村に相談し、すぐに江間四郎(北条義時)、三浦義村・結城朝光(等の軍勢)を派遣し千幡を迎え取られた。これらの事から時政の前妻の子等と継母の牧の方との関係は『吾妻鏡』を読む限り良好なものでは無かった事が窺われる。
元久二年七月十九日、時政の後妻牧の方が平賀朝雅を関東の将軍にして現将軍家(源実朝)を滅ぼそうとする風聞があり、実朝は、時政邸にその時おられた。尼御台所(北条政子)は、長沼宗政、結城朝光、三浦義村・胤義、天野政景等を遣わされ、将軍実朝を義時邸に入り守護している。時政邸に招き集められた勇士はすべて義時邸に参って実朝を守護した。時政は同日丑の刻(午前二時頃)急に出家した。六十八歳の出家であり、同時に出家したものは数え切れなかったと『吾妻鏡』に残されている。
同二十日、北条時政は伊豆の北条郡に追放下向した。そして、北条義時がこの日、二代執権職を承(うえけたまわ)られた。そして中原広元、三善康信、和田義盛らによる審議で平賀朝雅の誅殺が決められ、同二十七日、京にいた平賀朝雅は謀殺されている。『愚管抄』においても、経緯はほぼ同じであるが、平賀朝雅が頼朝の養子であったとされ、陰謀を知った政子が知謀にたけた三浦義村に相談し、将軍実朝を義時邸に遷し、郎党を招集して警護させた。そして義村は、将軍実朝の命として祖父時政を呼び出し故郷の伊豆に送ったとされる。また、平賀朝雅は追討を受け、山科まで逃走するが、そこで自害したと記されている。健仁三年(1203)九月十五日千幡の乳母阿波局(政子・義時の同腹の妹)が時政の後妻牧御方に悪意があるとして時政邸においておくことは危険であると政子に告げた。政子は三浦義村に相談し、すぐに江間四郎(北条義時)、三浦義村・結城朝光を派遣し千幡を迎え取られたとする記載は、この記述と重複している可能性もある。
牧氏の事件は、北条時政と牧御方が、実朝の後見として権勢を掌握していたが、『吾妻鏡』七月八日条で、十四歳の実朝に変わり尼御台所・北条正子により畠山重忠や残党の所領を功勲のある者に賜った。と記載され、政子の存在感が前面に出てきている。時政の権勢に陰りが見え、時政が幕政の主導権をめぐり、時政、牧御方の嫁婿を将軍に付けようとしたと考えられてきた。しかし、この事件の本質は定かではない。私見であるが、畠山重忠の乱の首謀者として稲毛重成が誅殺されたが、『吾妻鏡』元久二年(1205)六月二十三日条で、「…今回の合戦の発端は、多田重成法師の謀略で、右衛門権左平賀朝雅は畠山重信に遺恨があり、その一族が叛逆を企てたと時政の妻室牧の御方に讒言し、時政が密かにこの事を重成に相談して、重成は親族の縁を意に反した動きをして従兄弟である畠山重忠に不慮の死を告げさせた」とし、すべての責任を稲毛重成に負わせたのであるが、平賀朝雅、牧御方、北条時政の関与は、御家人達が知る必然であり、このまま三名に対し咎めることが無ければ、北条執権体制は、崩壊すると北条政子・義時、中原広元、三善康信、三浦義村、和田景盛等が考えたあげく、平賀朝雅を誅殺、牧御方と北条時政を出家させ伊豆への追放と言うことで切り抜けようとした政変としてとらえるべきである。そして「北条義時が二代執権を承(うえけたまわ)られた。」とあるのは、本来、将軍実朝からであるが、十四歳の実朝に変わり尼御台所北条正子により「承られた」と考えるべきである。
将軍実朝の後見として北条政子を中心とした北条専制体制を形成し、幕政面では弟の二代執権北条義時、そして、頼朝生前時からの大江広元、三善康信等の重臣たちの体制が作られた。 ―続く