北条執権の中で名執権と呼ばれるのが、二代執権・北条義時、三代執権・泰時、四代執権・時頼、五代執権・時宗とされる。義時の場合を見ると、御家人重臣たちによる合議で幕政を運営した事と、和田合戦の戦勝、そして承久の乱での評価が挙げられる。しかし、その合議は、偏った北条に与する重臣たちの合議であり、特に姉の政子や大江広元の指示・提言を成したものと考える。和田合戦の経緯と合戦の対応を見ることにする。
『吾妻鏡』承元三年(1209)四月十日条において、実朝は従三位に叙される。藤原定家に和歌三十首の評を請うている。そして同年十一月十四日、北条義時が、年来の郎従(皆伊豆国の住人で、主達と号した)の中で手柄のあった者を侍に準じると命じられるように望み、内々で審議が行われたが、実朝は「そのことを許せば、その者たちが子孫の代になり以前の由緒を忘れ、誤って幕府へ直参を企てる。後の災を招く元であり、許してはならない」と許さず、激しく命じたとされる。将軍としての実朝と執権としての義時がその職に確立しつつあるときだあった。しかし、その重責という物が和田合戦により二人に知らしめた事だろう。その和田合戦の経緯と合戦の対応を見ることにする。
建保元年(1213)二月十五日、信濃の住人青栗七郎の弟、阿静房安念法師を千葉之介成胤が生け捕り、評議の結果二階堂行村に叛逆の実否を問い糺(ただ)すように命じられた。安念法師の白状により、謀叛の者が諸所で捕縛され、二百名に及んだとされる。事の内容は信濃国住人の泉小次郎親平が一昨年より、捕縛された諸者に対し、尾張中務丞が養育している故二代将軍頼家の子息・栄実を大将軍として北条義時を討つ企てであった。捕縛された中に侍所別当・和田義盛の息子・義直と義重、甥の胤長がいた。
ここで、「北条義時を討つ企て」は、『吾妻鏡』では、修禅寺に幽閉された二代将軍だった源頼家が亡くなられた記事を元久元年(1204)七月十九日に「昨日十八日左金吾禅閤(源頼朝、享年二十三歳)が当国の修善寺で亡くなられました。」と言う知らせが飛脚によりもたらされている。慈円の『愚管抄』では、「…(建仁三年)十一月十三日、ついに義時は捕手を差し向けて一幡若(頼家の長子)君を捕らえ、藤馬という郎党に刺殺させて、泣きながら埋めた」。そしてまた次の年、元久元年(1204)七月十八日、「修禅寺において頼家入道を刺殺したのであった。急に攻めつけることが出来なかったので、首に紐をつけ、ふぐり(男性陰部)をとったりして殺した」と記されている。
『吾妻鏡』の簡潔な記載と、『愚管抄』による詳しい記事に対し信憑性おいて『愚管抄』の記事が定説とされ、「北条義時を討つ企て」は、北条が行った比企の乱から将軍頼家の幽閉。義時が行った刺客による頼家殺害が、頼家近臣の武士達から、いかに恨みをかっていたかが窺い取れる。
和田義盛は頼朝挙兵時からの忠臣で、今は幕府の侍所別当であり、同族の三浦氏と並ぶ勢力を持つに至っている。また、実朝の幼少期から仕え、実朝の知る謀叛・合戦において武功をあげ、実朝は義盛の人間性に親しみを持っていた。そのため、自身の子息、甥が泉親平の乱に加わり実朝に赦免の直訴を行っている。
建保元年(1213)三月八日、和田義盛は上総国の伊北庄にいて、この知らせを受け急遽鎌倉に戻り御所に参上し実朝と対面した。実朝は義盛の度重なる勲功に免じ義直と義重の罪を赦された。翌九日、和田義盛は木蘭地の水干と葛袴を着た姿で再び一族九十八人を引き連れ御所に参り、甥の胤長の赦免を請いに来た。しかし胤長は今回の首謀者であり、特に策謀を廻らしていたため、赦免されない事の実朝の意向を北条義時が伝え、二階堂行村にその場で引き渡した。その姿は胤長を後ろ手に縛り、一族の列座する前で行われた。胤長は陸奥国岩瀬郡に配流されたと言う。和田義盛の逆心は、ここで決まったとかんがえられ、胤長の荏柄社の前の屋敷は没収されることになったが、義盛の嘆願により許され代官を置いた。しかし義時が和泉親平の乱平定に功績があった金窪行親に拝領させている。この判断は、義時が独断か大江広元らとの作かは不明である。しかし、この判断が和田合戦における重要な機転となるのだ。
東御門は荏柄天神が近くその脇に和田胤長邸があった。北条義時邸は、現在の宝戒寺周辺。和田義盛邸は鶴岡八幡宮の平家池対面の横大路周辺とされ、合戦時においては、北門は三浦勢、東門は胤長邸から、南門、西門は和田勢が抑えることが出来ることになる。この合戦は将軍実朝を誰が確保するか否かにかかっていた。北条義時は、必要以上に和田義盛に挑発を行った。
五月二日条、八田知家は、和田義盛の近隣に居住。義盛の軍兵が競い集まっている事の様子を見て、その音を聞くと甲冑を着て使者を前大膳大(大江広元)に告げた。その時、広元は賓客を招き酒宴を行い、 宴もたけなわであった 。その知らせを聞くと、一人席を立ち御所に走り参った。その後、三浦義村は義時邸に参上し、義盛の挙兵を知らせ、その時、義時は、碁会を行っていたとされ、義盛と横山時兼地は謀叛の疑いがあったが今朝起こるとは思わず御所での警備の備えをしていなかったという。和田勢が、この日に出陣するとは思いもしなかった事が窺われる。
和田合戦の起こった日時が五月二日であるが、時間が「申(さる)の刻(夕方四時)」もしくは、五月二日暁寅の刻(午前四時)の記載があり、『吾妻鏡』五月二日条では「申(さる)の刻(夕方四時)に和田義盛が一味を率い、御所を急襲した」と記載されている。また。『吾妻鏡』五月三日条では北条泰時が「去る一日の夜、酒宴があり翌二日の暁天(明け方)に義盛が襲ってきたとき…」とあるり、整合性が無く、複数の資料を用い編纂された事が窺い取れる。しかし、和田義盛の子息・朝比奈義秀の猛威を振った激戦の内容において「天地を震わせるほどに戦った。その日は暮れて夜になり、星が出たものの、(戦いは)まだ止まらなかった。」と有り、これらの記載から御所への襲撃は、「申の刻(夕方四時頃)」が通説となっている。 ―続く