北条時政は、比企の乱後、実朝を三代将軍に擁立し幕府政所別当に就いた。そして、執権として北条氏の幕府内での専制が始まり、三浦氏、千葉氏、小山氏、畠山氏の軍事力においては、同等近くの勢力を持つようになっていたが、一族でのみで対抗し得る軍事力は無かった。比企の乱後、千幡が時政邸に移り後家人らに所領安堵する下知状を時政が行ったが、健仁三年(1203)九月十五日千幡の乳母・阿波局(政子・義時の同腹の妹)が時政の後妻牧御方に悪意があるとして時政邸においておくことは危険であると政子に告げている。政子は三浦義村に相談し、すぐに江間四郎(北条義時)、三浦義村、結城朝光を派遣し千幡を迎え取られた。時政は狼狽し女房の駿河局を介して陳謝されたところ成人するまで政子と同署で養育すると返事されたとすここで何を陳謝したのかは定かではないが、思う所は下知状を自身の書名により配布した事を考える。この時点で実質的に政子が時政に代わり台頭したと考えられる。
北条時政は、武蔵国の武士団の首領・最有力在庁官人で、畠山重忠が娘婿(政子・義時と同腹の娘とされる)であった。畠山重忠の勢力は、武蔵国の比企一族を一掃したが、比企郡に隣接する男衾(おぶすま)郡を本拠とする秩父一族の畠山重忠は時政にとって脅威であったと考え、婚姻関係を結んだと考えられる。重忠は「坂東武士の鑑」と称されるほど人望もあり、事が起これば北関東の武士等は重忠に与するだけの人物である。同じく北条時政の娘婿(時政と牧御方との娘とされる)である武蔵守に就いた平賀朝雅と武蔵国惣追補使である畠山重忠も武蔵国での対立もあったと考えられる。
元久二年(1205)六月二十一日、畠山重忠の次男の畠山重保は、北条時政の後妻・牧の方の娘婿になった京都守護の平賀朝雅との遺恨により、朝雅が姑の牧御方に讒言(ざんげん)した。前年の元久元年十月に三代将軍・実朝が京に正室を迎える使者として時政と牧御方との間に生まれた北条政範、畠山重保等が選ばれて上洛する。途中で政範が病気になり、京に着いた後の十一月五日に急死した。この急死により京都守護・平賀朝雅が京に随行していた畠山重保に病気でありながら京まで来るよりも途中療養させるべきであったと叱責した。重保も、政範に療養を薦めたが、政範は、実朝から選ばれた事に対し使者としての責務を全うするため京都に急いだと説明する。この事が、朝雅と重保の争論になり、遺恨を残すことになった。そして畠山重忠の乱と牧氏事件へと繋がっていく。
(写真:ウィキペディアより引用 畠山重忠像)
『吾妻鏡』では、元久二年(1205)六月二十一日条、「牧御方は(平賀)朝雅(昨年の畠山重康との争論)の讒言を受けてご立腹であったので(畠山)重忠親子を誅殺しようと、内々に謀議があった」。北条時政は子息、義時、時房を名越の自邸に呼び内々に畠山重忠の謀反の謀議が行われた。当初、義時・時房は、重忠の謀反の審議を行うべきで、謀殺には反対であった。「重忠は治承四年以来ひたすら忠節を尽くして来たので、右大将(源頼朝)はその志を鑑みられて、(頼朝の)子孫を護るよう、心を込めた御言葉を遺されたものです。とりわけ金吾将軍(源頼家)に仕えていながら、(比企)能員との合戦の時は味方に参り、忠節を尽くしました。これはすべて父子(重忠は時政の娘婿)。の礼を重んじたためです。そうしたところ、今どのような憤りが在って叛逆を企てるのでしょうか。もし度重なる勲功を心にとめず、軽率に誅殺すれば、きっと後悔するでしょう。罪をおかしたか否か真偽を糺(ただ)した後に処置したとしても、遅くはないでしょう。」時政は再び言葉を発することなく席を立ち、義時もまた退室した。追って備前守(大岡)時親が牧御方の使者として、義時邸に参り「重忠の謀反の事は、すでに露見しています。そこで君のため世の為に事情を密かに時政に伝えたところ、今、あなたが申されたことは、ただ重忠に代わり、その悪事を赦そうとするものです。これは継母を憎んで、私を讒言人とされようとしているのでしょうか」。義時は、「この上はお考えに従います。」と申されたという。」
牧の方の強い訴求により義時は、それ以上逆らうことは出来なかった。義時は、この少し前までは江馬姓(北条氏の分家名)を称し、北条氏の嫡男として処遇されていなかったとされる。時政と牧御方との間に亡くなった政範がおり、牧の方が嫡男として処遇することを望んだとされ、『吾妻鏡』では義時が前年の元久元年二月二十五日条まで、江間四郎義時と記載され、翌年の元久二年六月二十一日条に「相州」と義時の名を記載している。
(写真:ウィキペディアより引用 北条時政像、北条政子像)
時政は、娘婿であった稲毛重貞(妻は義時の同腹妹で、亡くなり橋供養を行った際頼朝も参列し、その帰りに落馬したため亡くなったとされる)を使い、重貞が御所に上がり、重忠謀反を訴え十四歳になる将軍実朝が重忠討伐を命じたとされる。しかし、私見であるが、後見としての北条政子の指示によるものと思われる。
同月二十二日、時政は重忠謀殺を行う手始めとして、夜半に重保を鎌倉で謀反が起こったと呼び出し、討伐のために出向いた重保は、時政の命を受けた三浦義村に由比ヶ浜で騙し討ちにより誅殺される。重忠は鎌倉に変事があったと知らされ、急遽鎌倉に駆けつけるが、翌二十三日に幕府軍の大軍に二俣川(現横浜市旭区)で遭遇し激戦の末、討たれた。武蔵の武士の首領であり、幕府に忠誠をつくした平姓畠山氏は滅んだ。
同月二十三日条、「未の刻に相州(北条義時)以下が鎌倉に帰られた。遠州(北条時政)が戦場の事を尋ねられると、義時が申された。「重忠の弟・親類はほとんど他所にいて、戦場に赴いたものはわずか百余人でしたので(重忠が)謀反を企てたと言うことはすでに偽りでした。あるいは讒言によって(重忠は)誅殺されたのではないでしょうか。とても哀れです。首を切って陣に持ってきたのを見ましたが。長年顔を見合わせて親しくしてきたことが忘れられず、悲涙を抑えることが出来ませんでした。時政は一言も仰らなかったという」。これらの『吾妻鏡』の義時の記述で不可解に思われる。この記載が義時が本意でなかったことを示している点、曲筆されたと私は考えている。
同日、三浦義村が思いをめぐらし、経師谷口で稲毛重成の弟・榛谷(はんがや)重朝と嫡男重季・弟秀重を討った稲毛入道(重成)は大河戸行元に、子息・小沢重政は宇佐美祐村が誅殺した。北条義時、三浦義村等は、今回の合戦の発端は、多田重成法師の謀略で、右衛門権左平賀朝雅は畠山重信に遺恨があり、その一族が叛逆を企てたと時政の妻室牧の御方に讒言し、時政が密かにこの事を重成に相談して、重成は親族の縁を意に反した動きをして従兄弟である畠山重忠に不慮の死を告げさせたとした。すべての責任を稲毛重成に負わせたのである。
七月八日、十四歳の実朝に変わり尼御台所北条正子により畠山重忠や残党の所領を功勲のある者に賜った。また尼御台所の女房五・六人が亡びた武士の遺領を恩賞に受けている。この畠山重忠の乱で勲功を挙げ恩賞に与った坂東武士が多くいたが、無実の罪で誅殺された畠山重忠の死に対し鎌倉で問題になったであろう。この対応が稲毛重成の誅殺で終わらそうとした事が窺われる。『吾妻鏡』の義時の記述が不可解に思われる点は、無実で誅殺された畠山重忠の所領は一族が継ぐ物とされるが、合戦で勲功を挙げた武士に恩賞として与えている事である。また、北条氏が勲功に対する恩賞としての持ち合わせる所領が無かったことも考えられるが、いささか対応が不十分であったと言わざるを得ない。そして、畠山重忠の乱の終決として牧氏事件へとつながっていく。―続く
(写真:鎌倉 寿福寺)