鎌倉散策 『吾妻鏡』に見る北条執権体制 一、比企の乱 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』は、鎌倉幕府末期の正安二年(1300)、鎌倉幕府九代執権北条貞時の頃に武家政権の最初の記録として鎌倉幕府の事績を編年体で記された歴史書である。藤原定家の『明月記』や諸者の大江氏・三善氏・二階堂氏等の公文書の記録や訴訟部文書、御家人の記録・家伝、や寺社の記録等を資料として、治承四年の四月の以仁王の平家追討の令旨から始まり、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝でから文永三年(1266)七月の六代将軍・宗尊親王将軍追放までのまで間を北条得宗家の複数人により編纂されたらしい。

 

 後世に編纂された目録により全五十二巻と言われるが,四十五巻欠になっており、また所々において記載が成されていない時期もある。特に著名な時期が頼朝の急死の時期等が挙げられる。また、編纂自体が、おそらく未完で終わったとする説が有力である。したがって、『吾妻鏡』は北条得宗家による編纂であるとされている為に「源氏三代」に対し、特に二代将軍頼家には非常に曲筆された記述により編纂され、北条得宗家の二代執権義時や特に三代執権泰時の活躍や人物像、政治姿勢においての記述は強調され、偏りが多く目に付くことも多い。そのために、慈円の『愚管抄』や九条兼実の『玉葉』、『承久記』等の同時代の資料で比較・確認することが必要であり、また正否を自身で確認することで歴史を楽しむことが出来る。

   

(『明月記』断簡 大阪府立中ノ島図書館蔵)

 細川重雄氏の『執権』「北条氏と鎌倉幕府」の冒頭に「執権」とは、「鎌倉北条氏が独占・世襲した鎌倉幕府の役職。幕府の主人公である将軍(征夷大将軍)の後見役、政務代官とされ、幕府の政務を総覧した。鎌倉時代中期以降、二人制となり事績の執権は連署と呼ばれた。」と記述されている。

 職名として「執権」が最初に用いられたのは、治暦五年(1069)に後三条天皇が荘園整理令を発布し記録荘園券契所を設置した記録書の勾当(別当)の別称であったと考えられている。文献上確認できるのは文治二年(1186)以降であり、職事(しきじ:律令制における特定の官人集団を指して用いた呼称)の蔵人(律令の令に規定のない新設の官職の両下巻の一つ)の筆頭を執権職事と称した。後鳥羽院が院庁で別当の内で責任者として執権として、院中雑務を葉室光親に任じている。 鎌倉幕府は、源頼朝が東国御家人の武士の棟梁として平家追討の功績により公卿に列したことからはじまる。鎌倉殿として頼朝の家政機関から始まったもので、政所(まんどころ)が政務の中核を担い、その政所の家司の筆頭に別当が与えられている。初代別当には、大江広元が任じられた。

 

 北条時政は、娘・政子が源頼朝の妻となり、二代将軍になる頼家を産んでいるため、頼朝の舅、頼家の祖父として外戚となる。頼朝生前時には、甲斐源氏の主流・武田信義の失脚でその後の駿河守護を与えられたとされる。頼朝の命で文治の勅許を得るため千騎の兵を伴い上洛し、その後京都守護に就いた。後白河院から七カ国地頭、惣追補使(そうついほし:一国の警察・軍事的役割を担う官職)を任じられ、下向する際に七カ国地頭は辞任している。また、伊豆、駿河、遠見国の守護に任じられるが、特別に源頼朝から舅・外戚としての厚遇は与えられていない。頼朝死後、二代将軍として頼家が就くと頼家の独断を抑えるために十三人の合議制が敷かれる。この合議制は頼家の悪政に対する手段とされるが、しかし十三人の合議制が行われた事は、ほとんど記述に無く、鎌倉幕府の十三人の主要御家人の立場と権限をさらに大きくしたことは間違いない。特に北条時政を挙げることが出来、執権体制の始まりであった。十三人の合議制に名を連ねているが、その首謀者は時政と考えられ、子息・義時もその中に加わっている。

 

(写真:ウィキペディアより引用 英雄百首北条時政像、 北条政子像)

 頼朝生前時から御家人統制を担っていた侍所別当で頼家の乳母夫である梶原景時の讒言に対して三浦義村、和田義盛諸将六十六名の連判状により景時の排斥が行われ失脚して鎌倉追放になった。京の公卿を頼り、上洛中に駿河国在地の武士・吉香友兼に討たれ一族は滅亡している。この際の連判状には、北条時政・義時の名は無かった。その理由としては定かではない。しかし、頼家の乳母夫である梶原景時の将軍・頼家の裁断がどう転ぶかわからない中、動かなかったのではないかと。また、首謀者的役割を担ったのが時政の娘で北条政子の同腹の・妹阿波局である事から、影を潜め自粛したのではないかと考え、北条氏一族の排斥活動ともみられる。そして駿河国に影響力を持つ時政の命により駿河国在地の武士吉香友兼に景時を討たせたのではないかと。次第に北条時政の権限が上がっていき、正治二年に時政は、源氏一門以外で初めての国司として遠見守に任じられた。

 

 健仁三年(1203)九月二日、二代将軍頼家の危篤時においての継承問題に対し、北条時政と比企能員が争い、時政が能員を自邸に呼び出し誅殺し、比企の乱が勃発した。『吾妻鏡建』において「…能員の一族・郎従らは子御所と称する一幡君の御館に立て籠もった。謀叛、であるので 未の三の刻、に北条政子の御命令によりその者たちを追討するために軍勢が派遣された。」と記され、この時代は、 頼朝亡き後の家長的権限を持つのが正室であるが、政子の主導的地位を窺い得る。比企の能員の乱後、比企一族は滅亡し、二代将軍頼家も修善寺に幽閉され、北条義時の刺客により殺害される。『愚管抄』では、生き延びた一幡を北条義時の手勢により殺害したと記述がある。

 北条時政は、頼家の弟で娘の阿波局が乳母を勤めた十二歳の実朝を三代将軍に擁立し、自邸の名越邸に迎えて実権を握った。同年九月十六日には、幼少の実朝に代わり時政が「関東下知状」を単独で署名し発給し、御家人たちの所領安堵以下の政務を行っている。また十月九日には、大江広元と並び政所別当に就任し、広元の権限を抑えて幕府、北条氏の専制を確立したとされる。このような背景で、この時期に北条時政が鎌倉幕府執権に就いたとされている。 ―続く