鎌倉散策 「武士の世」二十九、承久の乱 その意味 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年(1221)六月十三日、雨が降る中、北条時房、北条泰時が勢田、宇治、京への進軍の激戦が始まり、勝敗を決して、洛中になだれ込んだ。この乱は朝敵として院宣を受けながら朝廷に勝利した初めての乱であり、後に足利尊氏にも繋がる事件であった。

 

 官軍の敗退は、後鳥羽院の無謀な挙兵であったとする一語に尽きる面もある。しかし、後鳥羽院は、戦略的に挙兵の策を進めたが、宣旨による徴兵が間に合わなかった事が敗因の要因である。また、周りの近臣の公卿が後鳥羽院に対し諫言及び、提言を行える者がいなかった点に上げられる。武士の山田重忠等の提言を退け、合戦を知らない者等が、防衛線を広げすぎて少数での攻防を行った点も挙げられる。

 幕府側は、東国武士の集団であり、治承・寿永の乱から奥州合戦、比企の乱、畠山重忠の乱、和田重盛の乱と合戦を繰り返して現状を強化してきた。結果的に情報調達と情報操作、対応する即時的な決断を下した幕府軍が、見事に官軍を破った。最近はこの承久の乱において鎌倉幕府首脳部が一丸となり、適材適所を用いた組織的な対応の結果、京都に攻め込み征圧したとされる。まさしくその通りだと思うが、その組織において、誰が首長として尊称され、その役割を果たすのかが大きな成否に繋がる。それは、まさしく北条政子であった。北条政子と言う存在が東国武士の御家人を心酔させる資質があり、幕府が適材適所に組織的に動いたことが勝因の最大の要因であったと考える。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽院像、北条政子)

 北条政子とは比企の乱においても、政子の命令により比企一族に追討の軍勢が出された。牧氏事件の際に、政子が三浦義村に依頼し時政邸より実朝の奪回に成功した。和田合戦においても三浦義村が義時に与したのも政子の存在と思われる。実朝の後継を親王将軍に話を進めたのも政子である。そして、承久の乱での政子の大演説と、早期上洛の出陣を行わせた事は政子でないと行うことが出来なかったと結論付けたい。

 

 幕府は、朝廷側に立った公家・武士の荘園所領の三千余ヵ所を没収し、幕府側の御家人に配分され、御家人達は、より結束を固めた。西国没収地は新補地頭として御家人たちが移住している。以前の源平合戦後の平家没管領に地頭職を与えられ、西に移った東国武士はいたが、承久の乱後には多く移る御家人が増えた。これらが西遷(せいせん)御家人と言われ幕府の支配権が西国まで及んだ要因の一つである。しかし、西国の地頭の得分(収益)は、謀反人の跡を継承するため、少なすぎると主張し、地頭側は東国の慣例を主張。本所・領家側は現地の先例を踏襲すべきと主張し両者との間で紛争が多発した。貞応二年(1223)六月に幕府は、新補地頭の得分比率を朝廷の宣旨によって決定した。地頭は総田畠の十一分の一を得分とし、その他の田畠については一段(反:約十アール)当たり五升の加徴米を徴収できる新補率法が出来た。また、山野河海から採れる所出物を領家と折半、罪人からの財産の没収の際に地頭が三分の一を取る規定であった。新補率法を採るか、現地の先例に従うかは地頭個々の判断にゆだねられている。鎌倉期に入り公領・荘園の安定化がもたらされ、生産力も上がっている。この地頭制を組み込んだ公武に渡る土地制度が承久の乱を経たことで一つの完成形を成したとも考えられる。

  

 乱の後に幕府は京都守護から幕府の出先機関として六波羅探題を設置し、北方に北条泰時、南方に北条時房が就任して朝廷及び畿内、西国武士の管理を強化した。貞応三年(1224)に泰時は、義時の急死の知らせにより鎌倉に下向するまで勤めている。また翌嘉禄元年(1225)に時房が連署につく為に鎌倉に帰還するまで続き、その後は、泰時の嫡子・時氏と、時房の嫡子・朝直がそれぞれ六波羅探題に就いており、後には、六波羅探題裁判権も行使されようになる。

 承久の乱後の幕府は、朝廷の後継問題にも関与するようになり、朝廷は詳細な問題においても幕府に伺いを立てなければならなくなる。幕府と朝廷間との二元政治は幕府の絶対的優位が確立し、鎌倉幕府は北条義時を中心に本格的な執権制度が始まった。まさしく慈円による『愚管抄』で保元の乱で語った「武士の世」が完成されたと言うべきである。

  

 そして、承久の乱の後、義時の急死により、泰時を三代執権に就かせたのも政子の力量である。泰時は、政所政務を連署の設置により合議的な政策を取り、幕府の徳政を主道した。貞永元年(1232)八月十日、『御成敗式目』を制定し、御成敗式目は室町期、江戸期においても応用されている。そして承久の乱は、以降明治維新までの六百年以上に及ぶ朝廷に対する武家政権優位を決定付けた。 ―完