((写真:隠岐郡海士町オフィシャルサイトより引用、日須賀地区の夕日と豊田地区松島
後鳥羽院は隠岐国に、順徳上皇は佐渡島に流罪。討幕計画に反対したとされる土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されたが、後に阿波に赴かれた。後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流され、仲恭天皇は廃された。
承久三年(1221)七月十三日、『吾妻鏡』では、後鳥羽院は鳥羽の行宮(あんぐう)から隠岐国に遷られた。甲冑の武士が御輿の前後を囲み、御共は女房二、三人と内蔵頭(くらのかみ)藤原清則入道であった。ただし清則は道中で急に召し返され、施薬院使(やくいん)和気長成入道と左衛門尉藤原能茂入道らが追って参ったと言う。『承久記』「慈光寺本」では伊藤祐時が身柄を受け取り。輿を進行方向と逆向きにする罪人移送の作法である、「四方の逆輿」に乗せたという。供奉したのは、伊王左衛門入道藤原の能茂と坊門信清の娘・頼仁親王の母「西ノ御方」坊門局ら女房に三人と、旅先での九死に備え聖(ひじり)一人であったとされ、どちらにしてもほんの少数の供奉人であった。
(写真:ウィキペディアより引用 水無瀬殿、大原陵)
『承久記』同十三日に隠岐の国へ移し奉るべしと聞へしかば、御文遊ばして九条殿(道家)へ奉らせ給う。「君しがらみとなりて、留めさせ給ひなんや」と御歌を遊ばされける。と記している。これは、九条道家、鎌倉に下向した三寅・四代将軍の頼経の父に「君しがらみとなり」と、流れをせき止めるための柵、あるいは杭になってくれないかと言う懇願である。また「水瀬殿を当らせ給うとて爰(ここ)にてあらばやと思い召されけるこそ、せめての御事。」と記され、水無瀬殿の側を通った時に後鳥羽院は、配流先がここであったらと思われ、よくよく思いつめられた事とされる。後鳥羽院一行は、明石を経て美作と伯耆の山中を超え、七月二十七日後鳥羽院が出雲大浜港に到着され、ここで御船に遷られた。御供の武士は暇を賜りほとんどが京に帰った。後鳥羽院は、その武士に御和歌を七条院(藤原殖子)と寵妃の修明門院(藤原茂子)に献じたと言う。
「タラチネノ消ヤラデマツ露ノ身ヲ 風ヨリサキニイカデトハマシ」
「シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥 島々シホル袖ノケシキヲ」
(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽院像)
同年八月五日、後鳥羽院は隠岐国阿摩郡苅田郷(島根県隠岐郡中ノ島海士町)に到着された。仙洞は翠帳紅閨(すいちょうこうけい)から柴扉桑門(さいひそうもん)に改まり、場所はまた雲海が沈々として南北も知れないので、手紙や使者の便りを得ず、烟波(えんば:靄の立ち込めた水面)が満々として東西に迷うため、また月日の進み具合も分からない。ただ京の仙洞を離れる悲しみ、都を出る恨みで、思い悩まれるばかりと言う。隠岐の苅田御所に遷されてからは、望郷の思いが募り京に帰る事を望みながら、わびしい生活を送った事が窺われる。
「蛙鳴く苅田のいけのゆうだたみ 聞かましものは松風の音」
従来の培った和歌で心を慰め、後鳥羽院五百首(遠島五百首)の歌集を作られている。堀田善衛氏の『定家明月記私抄続編』に無実の罪によって配所の月を見た菅原道真にかけた歌が一首あるが、子の上皇が自らを罪なくして流された者と歎じている風情は、全くないのである。乱を発起したことについての弁明も全くない」と記している。
「おなじ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島もり」
(写真:隠岐郡海士町オフィシャルサイトより引用、後鳥羽院御火葬塚、後鳥羽院在所(旧源福寺)
『明月記』によると文暦二年(1235)春頃に摂政工藤道家が後鳥羽院と順徳院の環京を示唆するが北条泰時はこれを受け入れなかった。京への帰還が叶わぬまま十九年が過ぎ、四条天皇代の延応元年二月二十日、配所にて崩御、享年六十歳であった。同地で火葬され、火葬が行われた場所には後に御火葬塚が作られている。後鳥羽院を「ごとばんさん」と慕った中ノ島海士町の島民の気持ちは今も受け継がれ火葬塚の隣に隠岐神社が創建された。後鳥羽上皇の和歌に踊を付けた『承久楽』が隠岐神社で奉納されている。同年五月「顕徳院」と諡号(諡号)が贈られた。遺骨が仁治二年(1241)に京都大原の法華堂に安置された。
(写真:隠岐郡海士町オフィシャルサイトより引用、明屋海岸と三郎岩)
壇ノ浦の戦いで剣璽(けんじ)が海中に没し、安徳天皇が退位しないまま後白河院の詔(みことのり)で元暦元年(1184)七月二十八日に四歳で後鳥羽帝は「神器無き即位」を行った。後鳥羽帝十九歳の建久九年(1198)土御門天皇に譲位し、院政を始めた。承元四年(1210)に順徳天皇の践祚(せんそ)に際しては、三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなし用いられている。そして仲恭天皇の三代の間の二十三年間院政を続けた。「神器無き即位」を行った後鳥羽帝は、劣等的な意識の中、屈辱感と自己嫌悪がその後の行動に反映されているとされる。それが、幼少期からのその屈辱感に対して、あらゆる武芸や和歌などの文芸にも取り組み卓越した才能を開花させていた。また、後鳥羽院は伝統的な宮中での慣例行事などを復興させ、西面の武士の設置等で王朝の権威を上げ、自身が真の天皇であることを周囲に認めさせるよう行ったとされる。しかし、後鳥羽院の治世を批判する際に「神器無き即位」が不徳を結び付けられることもあった。
承久の乱後にも「神器無き即位」の経緯で不評を買い続け、専制的な謀政や無謀な挙兵に対し院の側近以外の貴族達は、冷ややかな対応に終始した。このため承久の乱後、幕府の政治的影響力の拡大があったにせよ後鳥羽院の同情的な意見は少なかった。『愚管抄』、『六代勝事記』、『新皇正統記』等ではいずれも「院が波動的な政策を追求した結果が招いた、自業自得の最期であった」と厳しく評価している。 ―続く