鎌倉散策 「武士の世」二十七、承久の乱の戦後処理 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年六月二十三日、去る十六日の北条泰時からの飛脚が今夜丑の刻(午前二時頃)に鎌倉に届いた。合戦は無事に終わり、世の中が静まった経緯を詳細に書き留められた書状を開くと北条義時の公私の喜びは、たとえようもなかったとされる。直ちに公卿・殿上人の罪名以下、洛中の事が定められ、大管領禅門(覚阿:大江広元)が文治元年の処置を先例に勘案して計らい事書を整えた。翌二十四日の寅の刻(午前四時頃)に安藤新左衛門尉光成が事書を持ち鎌倉を発った。幕府は、戦勝に喜ぶばかりではおられなかった。今回の合戦において後鳥羽院及び合戦の首謀者である公卿・殿上人の処罰。朝廷人事の刷新。残党の征討と戦後処理を厳格かつ迅速に断行しなければらなかった。

 

 承久の乱での官軍側の残党の征討は、徹底的に長期間に及び行われている。仁和寺の僧侶が書いた『承久三年四年日時記』六月十九日条には、逃亡した藤原秀康以下を追討せよとの宣旨が「京畿諸国」に下された。『吾妻鏡』同日条では、六波羅で錦織判官代義継を生け捕りにしたと記されている。「義継は弓馬・相撲に秀でた者で、力は定人を超える勇士である。」逃げ切れることが出来ないと思い、突然に六波羅に現れ、佐野太郎・同次郎入道・同三郎入道らが取り押さえようとしたが、屈服せず、佐野の郎従も加わり義継を捕らえたと言う。二十日には、美濃源治の神地(こうずち)蔵人・頼経入道と一味十余人が貴船の辺りで本間兵衛尉に生け捕りにされ、多田蔵人基綱も梟首された。

同二十四日、合戦の首謀者の公卿の身柄は六波羅に移された。按察使(あぜち)藤原光親卿は武田信光が、中納言藤原宗行卿は小山朝長が、入道二位兵衛督有雅卿は小笠原長清が、宰相中将藤原範茂卿は北条朝時が預かる。

同二十五日、合戦の首謀者がさらに六波羅に移され、大納言坊門忠信卿は千葉介胤綱が、宰相中将一条信能は遠山景朝が、刑部僧正長厳・観厳は結城朝光が預かった。熊野法印快実・天野四郎左衛門尉等は梟首されている。二位法印尊長・能登守藤原秀康らは逃亡した。同二十八日、伊予国住人の河野入道通信は東国の武士を引き連れ合戦を行ったため首謀者とし、北条泰時は伊予国内の河野に味方しなかった武士に討伐を命じている。

 

 同二十九日、去る二十四日に北条義時が京で処置すべき条々を直接指示し、事書きを持たせた安藤新左衛門尉光成が、二十四日に鎌倉を出て、京の六波羅着いた。洛中・洛外の謀反の物を断罪されるよう条々を詳しく述べた。北条時房・泰時は事書を開き見て、三浦義村・毛利入道らと評議を行っている。残党の征討は、その後も長く続く。同年九月に、藤原秀康・秀澄兄弟が南都に隠れ住んでいるとの報せが六波羅に届き、北条時房が追討の為に家人を向かわせた。二人は河内国に逃れたが、十月六日に捕縛され六波羅に護送された後に斬首に処された。

 承久三年七月一日、合戦の首謀者で公卿以下の人々が断罪にせよとの事書に、北条泰時は速やかに公卿達を関東に連行するよう預かり人に命じた。同二日、西面の武士であった後藤検非違使従五位上行左衛門少尉藤原朝臣基清、五条筑後守従五位下行平朝臣有範、佐々木山城守従五位下源の朝臣広綱、江検非違使従五位下行左衛門少尉大江朝臣能範は、関東が被官の武士であり、源実朝に荘園を賜り、推挙により五位に昇った者であったが、勅名を重んじたとしても、御恩を忘れ、人々は全く弓馬の道ではなく、彼らを嫌った。そしてこの日、梟首された。

 

(写真:ウィキペディアより引用 藤原信実似絵の後鳥羽院御影 大阪府三島郡島本町水瀬神社所蔵、承久絵巻巻第二北条義時像)

 『吾妻鏡』嘉禄三年(1227)六月十四日条に院近臣の僧侶二位法印尊重は高司油小路で捕らえられたが自殺を図り、翌八日運ばれた六波羅で死去している。また、六月十四日には和田朝盛、和田義盛の孫で源実朝に和歌を通し寵臣で和田合戦後に北条義時討伐の為に官軍に加わったが、この日に捕らわれている。同五日、小雨が降る中一条宰相中将信能は遠山左衛門尉景朋に伴われて美濃に到着し、美濃国遠山荘で斬首されている。今回の合戦の首謀者は、みな洛中で斬首するよう関東の命であったが泰時は、今は洛外で行うのがよいとして計らったと言う。

 同月六日、後鳥羽院は四辻の仙洞より鳥羽殿に遷られ、離宮は東国の武士たちに取り囲まれていた。同八日、北条義時が後鳥羽の兄「持明院の宮」守貞親王を院に定め、守貞の出家をしていない三男の茂仁(ゆたひと)親王を次の天皇に立、前関白藤原家実が摂政の詔(みことのり)を受けられた。「本院」後鳥羽院は、この日に御戒師を御室(道助:入道親王)により出家された。似絵(にせえ)の名手の藤原信実朝臣を召して御影が描かれたとされ、大阪府三島郡島本町の水瀬神社に所蔵されている。またこの日、後鳥羽院と兄「持明院の宮」守貞親王の母・七条院(藤原殖子)が、警護の武士を説得され御幸され、後鳥羽院に会われたが、ただ悲涙を抑え帰られたという。後鳥羽院の後悔も断腸の思いであっただろう。

  

(写真:京都仁和寺)

 同九日、践祚が行われ、先帝の仲恭天皇は高陽院(かやのいん)の皇居で新帝の後堀河に譲位され密かに九条院に行幸された。『承久記』「慈光寺本」は、七月十日に北条泰時の子・時氏が鳥羽殿に参上し、弓の片端で御簾を書き上げ「君は流罪におなりになりました。早くおいで下さいませ」と責め立てたと記される。

 同十一日、後鳥羽院に参じて逆特に従った者らの所領が、北条時房以下の恩賞としてあてがわれた。この日、後鳥羽院に、従った山城守佐々木広綱の子息・勢多伽丸(せいたかまる)は出家して仁和寺に住み道助入道親王に育てられていた。この日、勢多伽丸は父広綱の謀反の連座としてとらえられ、仁和寺より六波羅に召し出される。道助は、芝築地(しばついじ)上座真昭に付き添わせ「広綱の重罪については何も言う事は出来ないが、この童は門弟として久しく親しんでいたので特に哀れである。十余歳の孤児で頼りもないので、どのような悪行が出来ようか。身柄を預け置かれたい」と道助と勢多伽丸の母は助命・嘆願する。泰時は御使者の真昭に会って「厳命を重んじて、暫く猶予しますと」、また「容貌の華麗な様子は、母の愁いと共に憐れみに堪えない。」と言った。芝築地(上座真昭と勢多伽丸らは、仁和寺に帰る事を許された。しかし,宇治の合戦で特に武功を挙げた伯父で広綱の弟の佐々木信綱が、自分の武功を取り消しにしても勢多伽丸の処刑を強く主張する。信綱は泰時の妹婿であり、幕府においても枢要な人物であるため断腸の思いで、あらためて勢多伽丸を呼び返し身柄を信綱に与えた。『吾妻鏡』ではその後、梟首されたと記され、梟首とは、斬首の後、晒し首にすることである。『承久記』には享年十四歳と記されている。

 

 後鳥羽院は隠岐国に、順徳上皇は佐渡島に流罪。討幕計画に反対したとされる土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流され、仲恭天皇は廃された。一条信能、藤原(葉室)光親・宗行、源有雅、藤原(高倉)範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上処刑され、坊門忠信らその他院近臣も各地に流罪または謹慎処分となった。京方に与した藤原秀康、・秀澄、後藤元清、佐々木経高、佐々木広綱、河野通信ら御家人等やその他武士の多くが粛正及び追放されているが、大江親広はちち・広元の嘆願により赦免されている。そして後鳥羽院は七月十三日流罪先の隠岐島に移送される旅路についた。

―続く