『吾妻鏡』には、宇治・勢田の合戦には幕府側は十九万騎の軍勢に膨れ上がったと記載される。官軍は藤原秀康が総大将で二万七千五百余騎であったと言われ、宣旨により兵力の増強は京周辺では成功しているが、畿内においては遅れた。また、出兵したが、上洛する前に勝敗が決してしまった事例もある。幕府軍が五月二十二日に泰時が十八騎鎌倉を発った時から二十二日の間に京に攻め上る陣形を整えた。この早急な動きに後鳥羽院は読み取る事が出来なかったと言えよう。また、宣旨に対する増兵の影響力が少なかったとも考えられる。
六月十三日、雨が降る中、北条時房が近江国の野路から勢田に向かい、官軍は勢田の唐橋の中央の二間の板を落としていた。橋の向こうで楯を並べ鏃(やじり)をそろえ、官軍山田重忠と比叡山の悪僧、播磨竪者(りっしゃ:僧の肩書を持つ者)が戦いを仕掛けた。悪僧は大太刀・長刀でを自在に操り、鎌倉武士が橋桁を上ってくると切り倒し川に落とす。今までにない苦戦を強いられ宇都宮業頼は橋上での戦を避け、一町余(約百メートル)川上あたりに陣を敷き遠矢を放ち戦っていたが、京方の「信濃住人、福地十郎俊成」の十三束三伏(じゅうさんたばみつふせ:自身の拳十二個分に三本の指の長さを加えた弓の長さ)大矢が冑の鉢に射立った。業頼も負けじと自身の名を付けた十三束二伏の大矢を渾身の力を籠め引き矢を放った。矢は、対岸の三町(約三百三十メートル)余り先で指揮をしていた山田重忠の側に突き刺さり、急ぎ退いたとされる。また、三穂崎(水尾崎)から船を船で現れた美濃竪者観厳らにも矢を放ち法師武者二人を倒し観厳も引き退く他なかったという。しかし矢が尽き、兵が討たれるのを避けるために攻撃が一時停止する命を時房が発するが、橋上で戦う武士には聞こえず、大声を発する伝達の武士の声により橋上の戦も停止された。勢田の合戦においても激戦であったと言う。
宇治に向かった北条泰時は、栗子山(京都府宇治市東南の丘陵)に陣を構え、足利義氏、三浦泰村は泰時に伝えることなく宇治橋あたりで合戦を始めた。官軍の雨のように放つ矢が東国武士団に当たり、退いて平等院に立て籠もった。夜半になり足利義氏は室伏康信を泰時の陣に送り「明け方を待って合戦を行おうと考えていたところ勇士らが先陣を進むあまりに既に矢戦(やいくさ)を始め、殺害されたものが多くおります」。泰時は驚くが、激しい雨の中を宇治へ向かう。この間にも合戦が行われ東国武士二十四人が、負傷している。官軍は頻(しきり)りに勝った勢いに乗じていた。泰時は甲斐国山梨郡室伏を本拠とする尾藤左近将監景綱を遣わし橋上での戦を制止させ、退却させた。また、この日の酉の刻(午後六時頃)、毛利入道(西阿:季光)・三浦義村は淀・芋洗に向かっている。
同十四日、雷鳴が数回あったが、晴れ、宇治川は昨日の豪雨で増水していた。北条泰時は渡河による攻撃でない限り官軍を破る事は出来ないと考え、近臣の泳ぎが上手な芝田兼義を呼び、川の浅瀬を調べさせた。しばらくして兼義が急ぎ戻り「渡る事は問題ありません」と泰時に告げた。卯の三刻(午前四時過ぎ)兼義・春日刑部三郎貞幸らは泰時の命を受け、宇治川を渡るために伏見津(京都市伏見区、宇治川が巨椋池に流れ込む交通の要所)に急行した。春日貞幸、佐々木信綱、中山重継、安藤忠家等は義兼の後に続いたが、増水し続けていたため渡河が困難な状況になっていた。官軍はこれを見て矢を放ち、義兼・貞幸の馬にあたり水に漂った。貞幸は水底に沈み危うく死ぬところであったが、心中で諏訪明神を祈り、脇刀で鎧の上帯と小具足を切り浅瀬に浮かび上がったところ泳ぎの上手い郎従らによって救われた。泰時は、これを見て自分の手で数箇所に灸を加えたので貞幸は意識を取り戻したが、貞幸に従っていた子息・郎従以下十七人は溺れた。渡河従軍した八百人中九十六人が溺死している。
佐々木信綱は中州に留まりながら子息・重綱を泰時の陣に遣わし「軍勢を賜って対岸に渡ります」と増援を依頼した。泰時は勇士を援軍に出すよう指示したが、時が経過し、日の出の時となった。泰時は子息・太郎時氏を呼び「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに川を渡り。敵の陣中に入って命を捨てよ』と言うと時氏は佐久間家盛・南条時員以下六騎を率い進み渡った。泰時が言葉を発する前に三浦泰村主従五騎が進み渡った。官軍は東国武士が水に入るのを見て一層勝ちに乗じる気配があった。泰時も馬を進めたが轡(くつわ)を取っていた貞幸が、押し止めることが出来ず、思いを巡らし「甲冑を着て渡る者は、多くが水に沈み死に申す、速やかに御鎧を脱がれますように」泰時が田に下りて立って鎧を脱いでいたところ貞幸が泰時の馬を隠したので泰時は心ならずも留まったと言う。乱後、貞幸の功名は先陣にも優ると鎌倉で評価されたと言う。
佐々木信綱が先陣していたが、中島で子息重綱を待っていたため岸に着いたのは北条時氏と同時であり、信綱は太刀を取って川底に流されている大綱を切り捨てた。芝田兼義も馬に 矢が当たり倒れたが泳ぎが達者であるため無事に対岸に着くことが出来た。強引な敵前渡河で多数の溺死者を出しながらも成功し、敵陣を突破しる。北条時氏は旗を高く掲げて矢を放ち、東国武士と官軍は挑みあい勝敗を争った。東国武士は既に九十八人が負傷したと言う。『百錬抄』六月十三日条は「勇散の輩(ともがら)身命を棄て牧島に渡り、兵糧を奪い取り、勝ちに乗ず」と記され、両軍の激戦の末武士たちにとって、兵糧を奪うか守れるかは、合戦の士気と勝敗を左右する事であった。
北条泰時・足利義氏等は尾藤左近将監景綱が命じ平出弥三郎に民家を取り壊した筏(いかだ)に乗り川を渡った。泰時が岸に付いた後は、武蔵・相模の者が特に攻めて戦い、官軍の大将の源有雅・藤原範茂・安達親長等は防戦する術もなく逃げ去った。しかし、官軍の藤原朝俊を大将軍として宇治川辺りに留まり奮戦したのが八田知尚、佐々木惟綱、小野成時であるが、この戦いですべて命を失っている。官軍は弓矢を忘れ敗走した。北条時氏は、その後も追って官軍を討ち取り、宇治川の北辺りの民家に隠れた兵に対し、火を放った。そのころ、北条泰時の勢田での戦も優勢となり、夜に官軍の大江親広、藤原秀康、小野盛綱、三浦胤義らが陣を放棄し京に戻った。。北条泰時は勇士十六騎を率いて、密かに深草河原に陣を構えた。右幕下・藤原(西園寺)公経の使者として三善長衡が陣に現れ、「どこまで来られたのか見てくるように幕下(公経)の命がありました」と伝える。泰時は、「明朝、京に入りますまず初めに連絡しましょう」。使者の名を問うと、長衡と名乗り、南条時員を長衡につけて公経のもとに遣わし、屋敷を警護するように命じた。
毛利入道(西阿:季光)・三浦義村は淀・芋洗などの要害を破り、高畠辺りに泊まった。泰時が使者を遣わし両人は深草に到着したと言う。夜になり官軍の大江親広・藤原秀康・佐々木盛綱・三浦胤義は陣を放棄し、京に戻り三条河原に泊まった。
十五日に幕府軍は京になだれ込み、幕府軍は寺社、公家武士の屋敷に火をつけ、京の民にも甚大な被害を与え略奪暴行を働いたと言う。 ―続く