鎌倉散策 「武士の世」二十四、承久の乱 京への進軍  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 承久三年(1221)六月七日、北条時房・泰時は、集結した東山道軍と東海道の軍兵を近江国に入る前に美濃国不破郡の野上宿と垂井宿に陣を構え、合戦の評議を行った。大勢は北陸軍を待ち、京に総攻撃をかけると言う流れになったが、そこで三浦義村が「今はわが軍が、勝ちに乗りたり。北陸軍の到着を待って日を送れば、敵勢も防戦の構えを固め、直ちに攻めあがるべし」と述べるとその案が受け入れられ、「北陸道の大将軍が上洛する前に、兵を京の東の要所に派遣されるのはいかがでしょう。そこで、瀬田には相州(時房)、手上(たのかみ)には城介入道(覚知:安達景盛)・武田五郎等、宇治川には武州(泰時)、芋洗いには毛利入道(西阿:季光)、淀渡(京都市伏見)には結城左衛門尉と義村が向かいます」。泰時は承知し、それぞれ異論はなかった。駿河次郎(三浦)泰村は、父義村と同行せず、泰時の陣に加わっている。推測だが義村の裏切りを拒むための人質ではなかったかと考える。

 

 同八日、寅の刻(午前四時頃)に藤原秀康、五条有永が負傷しつつ京に帰り後鳥羽院に奏聞した.「去る六日に摩免戸にて合戦に及び官軍は敗北いたしました」。人々は顔色を変え御所中が騒動となり、女房や上下北面の武士・医師・陰陽師の者が東西に走り乱れた。坊門忠信・源定道・源有雅・藤原範茂以下側近の公卿らは宇治・瀬田・田原(京都府綴喜郡宇治田原)の防護に向かっている。その後、鳥羽院は、比叡山延暦寺の僧兵に期待し比叡山に御幸した。後鳥羽院、御直衣・御腹巻で日照りが差を指された。女院・女房達は皆牛車に乗り、土御門院・新院(順徳)は御布衣、六条親王(雅成)・冷泉親王(頼仁)は御直垂(直垂)で御騎馬とされる。

 

 尊長法印の押小路河原(加茂川の河原付近)の宅で諸方の防戦についての評定が行われた。夕方尊長法印、内府の源通光、藤原定輔・親兼・信成がそれぞれ甲冑。職事(朝廷の公事を担当する蔵人)の藤原資、頼源実朝は直垂で御供祇候し、また、密かに主上(仲恭)も女房輿を用いて行幸された。主上・後鳥羽院は西坂本(京都市左京区一乗寺。修学院付近)の梶井御所に入られ、両親王は比叡山東麓の坂本にある日吉社の守七社の一つ十禅師(じゅうぜんじ)に泊まられたとされる。右幕下の藤原公経親子は因人のように召し連れられたという。しかし翌九日に延暦寺からの返答が届き「衆徒の微力」では「東士の強威」を防ぎ難いという物であった。

 

 六月八日、北条朝時・結城朝広・佐々木信実の北陸軍は越後国の小国源平三郎頼綱・金津蔵人資義・小野蔵人時信らを率いていたところ、越中国般若野庄で、宣旨が到来した。佐々木次郎実秀が、「私卒は勅命に応じ右京兆(北条義時)を誅殺せよ」との事を陣営に立ち読み上げている。その後、官軍の宮崎定範・糟谷有長・仁科盛朝・友野遠久等が加賀の住人の林次郎・石黒三郎と、その在国の者を率いて合戦に及んだが、結城朝広の勲功により、有長は討ち取られ官軍は敗れた。林次郎・石黒三郎は北条朝時結城朝広の陣に投降している。

 

『吾妻鏡』によると、鎌倉で、この日の戌の刻(午後八時頃)、雷が義時邸の釜殿(湯や飯を炊く釜を置いた場所)に落ち、人夫一人が亡くなった。義時は、たいそう恐れ覚阿(大江広元)を招き「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。或いはこれは運命が縮まる兆しであろうか」と尋ねている。『吾妻鏡』が記載するこの記事はは、義時の小心を窺い知ることが出来、頼朝生前時からほとんど武功を揚げることがない武士で、姉政子に従属する政治家であったと私は考える。覚阿は、「君真の運命は皆、天地に掌(つかさど)るものです。よくよく今度の経緯を考えますと、その是非は天の決断に仰ぐべきもので、全く恐れるには及びません。とりわけこの事は関東ではよい先例です。文治五年に故幕下将軍(源頼朝)が藤原泰衡を征討した時に奥州の陣営に雷が落ちました。先例は明らかですが、念のために占わせてみて下さい」と言い、安倍親職・泰貞・宣賢らに占わすと最も吉であると一致したと記されている。この出陣が逆臣の行為ではなく、天命による物と見せる節があるが、義時の小心さをここに記して編纂されるべきことか疑問に思う。 『吾妻鏡』に尾張での大勝の報告は届いていない。

 

 同十二日、官軍が再び諸所に派遣された。三穂崎(みおがさき:三尾崎、滋賀県高島市)に美濃竪者(りつしゃ)観厳と千騎。勢田には山田重忠伊東左衛門尉と山僧三千余騎。食渡には大江親広・藤原秀康・小野盛綱三浦胤義と二千余騎、鵜飼瀬には藤原秀澄と一千騎。宇治には源有雅・藤原範茂・朝俊・伊勢前司清定・佐々木広綱・敬重・コマツ法印(快実)と二万余騎。真木島(宇治川が巨椋池に流入する中洲)に安達親長、芋洗には一条信能・二位法印(尊長)。淀渡には坊門忠信が就いた。このように官軍の総数は、二万七千騎から三万騎ほどの兵力で、最後の攻防を迎えることになる。

 この日の北条泰時は、近江国野路(滋賀県草津市野路町)辺りで陣形を整えるため休息していた。小山朝長に従っていた下河辺行時が長年泰時を慕っており、「一族とは別の場所で武州殿(泰時)のため傷つき死ぬのは日頃の本懐」と言い泰時の陣に加わった。その時、酒宴の最中で、泰時は行時を見ると大いに喜び盃を置いて上座に招きその盃を泰時は行時に与え、子の(北条)時氏に乗馬を引かせた。また行時が伴った郎従や小舎人童(こどねりわらわ:身辺雑用を勤める少年))に至るまで陣幕の側に召して食事などを与えたとされ、泰時の思いやりに、見る者は益々勇気を奪い立たせたと言う。 ―続き