鎌倉散策 「武士の世」二十三、承久の乱 東国武士出陣 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 大江広元、三善義信は、文官でありながら源頼朝共に治承・寿永の乱を乗り切り、幕府創立に貢献した。彼らは京都の情勢に強く、院の宣旨が出ても、諸氏が京に集まるには時間がかかることは、承知していた。それよりも時の勢いに乗り武士が集積する事、治承・寿永での宇治川の合戦などの教訓、そして、東国武士の恩賞に対する心変わりする本質を知り、即刻の上洛を提言した。

 

 幕府軍は、承久三年五月二十二日に東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向け派兵した。東海道に向かった北条泰時は僅か十八騎で鎌倉を立ったと言う。『吾妻鏡』のこの記載が真実であれば、この行為が東国武士の雪崩のような鎌倉への集積した要因である。『増鏡』には、泰時が鎌倉に引き返し、院が兵を率いられた場合の対処を義時に尋ねており、義時は、「君の輿には弓は引けぬ、直ちに鎧を脱いで弓の弦を切って降伏せよ、都から兵だけ送ってくるならば力の限り戦え」と命じている。これは、博打的な要素を持った決断であるが、必勝を期すために後鳥羽院が兵力を増強する前に上洛すると言う適切な判断であったと考える。覚阿(大江広元)、入道善信(三善康信)の情報収集と分析能力、経験値、そして東国武士の恩賞にこだわる群集心理を見抜いていた。

 各御家人は各地に所領を分散していたため、東海道、東山道、北陸道沿いに所領地を持つ御家人は、その地の代官、郎従を引き連れ拡大してゆく。この早急な対応は、的確な情報と迅速な対応の決断によって、東国武士が、恩賞にこだわる打算的な面は大いにあるが、一方、自治権を得た東国の武士が再び律令国家、または、院の専制国家として戻る事に躊躇し幕府方に従軍したと考える。

同二十五日、しかるべき東国武士は、すべてこの日までに集まり、次々に北条義時の交名が書きとどめられ軍勢は総勢十九万騎となり、京に向けて次々と出陣して行った。

  

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽天皇像と北条義時像)

東海道軍の大将軍は、相州(北条時房)、武州(北条泰時)・洞太郎(時氏)、武蔵前司(足利)義氏、駿河前司・(三浦)義村、千葉介胤綱。従う軍勢十万余騎。

東山道軍の大将軍は、武田五郎信光、小笠原次郎長清、小山新左衛門尉朝長、結城左衛門慰朝光。従う軍勢五万余騎。

北陸道軍の大将軍は、式部丞(北条)朝時、結城七朗朝広、佐々木太郎信実。従う軍勢四万余騎であった。

 東海道を上る泰時は、同二十五日に駿河国に入り、二十六日に駿河国有渡郡手越駅に武田・小笠原と合流の支持があった信濃国の武士の春日暁武三郎貞幸が、契約があると言い泰時に合流し従った。京方は関東の軍勢が上洛する気配を知り、去る十九日に所々の関所を固められていた。同二十六日、夕刻に藤原秀澄が美濃国から京に飛脚を進め「関東の武士が官軍を破るため、間もなく上洛しようとしています。その軍勢は雲霞(うんか)のような大軍で、仏神の御加護が無ければこの天災を退ける事は出来ないでしょう」と知らせている。院中は慌てふためき、三院(後鳥羽・順徳・土御門)が五社に立願するため御幸されたという。同二十七日に幕府は、院宣の勅使である押松丸に進士判官代橘隆邦が書いた宣旨の請文を持たせ京に返した。

  

 同二十八日、北条泰時は、遠見国天竜川に到着、連日の洪水が続いていたが、この日は全く水が無く徒歩で渡ることが出来ている。翌二十九日には、北陸道大将軍・北条朝時に兵衛盛綱法師の子息佐々木兵衛尉太郎信実が合流。越後国加地庄の願文山に乱逆の首謀者である藤原信成卿の家人酒匂家賢の一味六十余人が立て籠もったので信実がこれを追討した。関東武士が官軍を破った最初の合戦である。晦日の三十日、北条時房が遠江国橋本駅に到着。関東の武士の中でも後鳥羽に祇候する武士もあった。下総前司小野盛光の近親の筑井敬重等十余人が、時房の軍勢に紛れ込み上洛を試みたが不信に思われ尋問され、敬重は誅殺されている。

六月一日、押松丸が帰洛し、高陽院(かやのいん)殿で後鳥羽院に関東の事情を申した。「鎌倉に到着した日から上洛の道中に至るまで心を悩ませていました。官軍を破るために参上しつつある東国武士は幾千万とも知れません」。院中の人々は、早急であり、その兵数に驚くほかなかったという。

 

 同六月三日、朝廷は鎌倉の軍勢が遠江に着いた知らせを受け公卿僉議(せんぎ)が開かれ、北陸道・東山道、東海道に藤原秀康を追討師とする軍勢の派遣が決められた。『吾妻鏡』『承久記』「慈光寺本」とで相違があるが陣容は、北陸道に宮崎定範、糟屋有久、仁科盛朝、大江能範。東海道・東山道は美濃国の要害に対する配置が行われ、阿井渡(あいのわたり)蜂谷入道。大井戸渡は、大内惟信、五条有永、糟屋久季。鵜沼渡は斎藤親頼、神地(こうずち)頼経。板橋は、荻野次郎左衛門、山田重継。火御子(ひのみこ)内海、御料、寺本。池瀬(伊義渡:いぎのわたり)は、朝日頼清、関左衛門慰、土岐判官代国衡、開田重朝、懸橋、上田。摩免戸(まめど)藤原秀康、佐々木広綱、小野盛綱、三浦胤義。食渡(じきのわたり)は山田左衛門、臼井太郎入道、惟宗孝親、下条、加藤判官。滋原(しげはら)左衛門、源(渡辺)翔(かける)。墨俣は藤原秀住澄、山田重忠。市脇は加藤光員が陣に着いた。

 

 藤原秀康・秀澄兄弟は院近臣の武士、大内惟信、五条有永、佐々木広綱、小野盛綱、三浦胤義等は在京御家人、源翔は西面の武士。山田重忠・重継親子、蜂谷、神地、内海、寺本、開田、懸橋、上田灰野・尾張の武士で構成された軍勢である。『承久記』「慈光寺本」によると「一万九千三百二十六騎と鎌倉方の十分の一であった。院近臣の武士で海道大将軍である藤原秀澄は、その軍勢を十二ヵ所の木戸に分散させる戦術を取った。その結果、各木戸の兵力は減少し、明らかな失策であったと「慈光寺本」でも「哀レナリ」と叙述している。後鳥羽院は追討宣旨を発して官軍を下向させた後にも在京・在国の武士や荘官、寺社、公卿の兵力を招集したが寺社勢力の参陣拒否や荘官等の本意ではない参戦などが相次ぎ十分な兵数の招集が出来なかった。後鳥羽院の招集計画が甘く、攻勢から受け身になり、藤原秀澄の失策などが、その後に大きな影響をもたらす。

 

 六月五日、北条時房・泰時の両将が尾張国一宮の辺りに到着し、合戦の評議が開かれた。鵜沼渡には毛利季光、池瀬には足利義氏、板橋には狩野宗茂、摩雌度には北条泰時、三浦義村、巣野俣には北条義時、安達景盛、と武蔵の御家人・豊島、安達、江戸、河越が就くことになった。その夜、東山道の討手武田信光・信政・小笠原長清、小山朝長らが木曽川を渡り大井戸・河合の官軍に戦いを挑んだ。官軍の大将大内惟信は子の帯刀惟忠を討たれ戦場から逃亡、蜂谷入道は負傷、子の蜂谷三郎は討たれた。五条有永、糟屋久季は負傷しながら敗走している。勝利した武田・小笠原の東山道軍は鵠沼渡しに向け進軍した。

 同六日、幕府東海道軍と官軍側が尾張河渡河で初めて遭遇し合戦となった。三浦義村は摩免戸(まめど)渡の攻口を担っていたが弟胤義も朝廷側として摩免戸ノ渡を固めており、三浦一族で兄弟同士の戦が始まった。しかし、その軍勢の多さに官軍は矢を放つことなく藤原秀康、佐々木広綱、三浦胤義は陣を放棄し京に逃走した。墨俣に陣を固めていた山田重忠が一人留まり常陸国の伊佐行政と奮戦するが、重忠も逐電した。官軍は、尾張の要害であった株川(くいせがわ)・墨俣・市脇の全てが破られ去った。 ―続く