承久三年五月十四日、武勇に優れた後鳥羽上皇は幕府の体制が弱くなったと判断し、「流鏑馬ぞろい」と称し、千七百騎ほどの兵を集め京都守護職の伊賀光季を攻めた。光季は、僅かの手勢で応戦したが、ここで討ち死にする。前日までの京都の情勢を鎌倉に家人をおくり、また藤原公経からの書状により、僅か五日で幕府は事態を知ることになる。五月十五日、後鳥羽院は、幕府討伐の宣旨ではなく、北条義時追討の宣旨が出した。後鳥羽院は三浦義村の弟胤義や、覚阿(大江広元)の子の大江親広、有力御家人の小野盛綱、佐々木広剛を味方に付けた。『承久記』「慈光寺本」は、この院宣を武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼政宗,足利義氏、北条時房、三浦義村の八人に下したとする。官宣旨を出すことにより兵力が増強できると後鳥羽院にとっては、計算された万全の策であったが、合戦を戦った事のない院にとっては、机上の空論で楽観的なものだったと言わざるを得ない。
『吾妻鏡』五月十八日条、虎の刻に太白星が螢惑性星(火星)に接近した(二尺の所と言う)から始まり、翌十九日に午の刻(午後零時頃)伊賀光季の十五日、院の内に官軍が集められ前民部少輔大江親広入道が昨日、後鳥羽院の召喚に応じた事と、藤原公経の知らせを聞き勅勘(天使から受ける咎め)を受けそうな情勢を知らす飛脚が鎌倉に着いた。未の刻(午後二時頃)右大将(藤原)公経の家司(家司)の主税守((ちからのかみ)三善長衡が十五日に遺わした京都からの飛脚が鎌倉に到着し申した。「昨日十四日、幕下(公経)と黄門(藤原)実氏は後鳥羽院が二位方院尊長に命じて、弓場殿(院御所の射場殿)に召し籠められ、十五日午の刻(午後零時頃)、官軍を派遣し伊賀延尉(光季)を誅殺し、按察使(あぜち:藤原)光親卿に勅して右京兆(北条義時)追討の宣旨が五畿七道に下したと言う。また、その関東分の宣旨の使者が今日、同様に鎌倉に着いたと言う。幕府首脳部は、早急に詮索したところ押松丸と称する藤原秀康の所従が葛西谷の辺りで捕縛する。所持していた宣旨、大監物(だいけんもつ:源)光行の副え状、と東国武士の交名を註進した文書などを取り上げる事が出来た。この結果、鎌倉以東には院の宣旨を止めることが出来、後の幕府の対応に大きく左右させる事になった。
(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽院像、北条義時像)
二品(政子)の御堂御所で、その宣旨が開かれ、倒幕の宣旨ではなく、義時追討の宣旨であることを知ったのである。同じころ、義村の弟胤義から決起を促す使者が送られてきたが、義村は、使者を追い返し、またしても北条義時のもとに赴き「義村は弟の叛逆には同心ぜず、(義時)の味方として並びない忠節を尽くします」と言い放った。
早急な京での情勢の知らせで事態を知った幕府は、院宣旨の使者を捕らえて鎌倉で留めた。そして各御家人に宣旨が渡ることを止め、院宣旨の内容を内密にし、義時追討宣旨を隠し、幕府討伐の宣旨に切り替え御家人に対応する。御家人は朝廷から宣旨が出た事に大いに動揺した。当時は院・朝廷と戦う事で朝敵の汚名を受ける事を恐れた。この知らせで御家人たちは、動揺を隠しきれなかった。北条政子、北条義時・時房・泰時・前大官領禅門(覚阿・大江広元)足利義氏が集まり評議された。その後、北条正子が御家人たちを御簾の側に招き、秋田城介・安達泰盛を介して指示して言った、御家人の面前で鎌倉幕府創設以来の頼朝恩顧を訴え、「讒言(さんげん)に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとして、実朝の偉業を引き継いでゆくよう」命じたことで動揺は収まったとされる。
『吾妻鏡』承久三年五月十九日条の北条政子の声明文は、「皆心を一つにして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍を征伐し、関東を草創してより以降、官位と俸禄と云ひ、この恩既仁山嶽よりも高く、溟渤(めいぼつ:果てしなき広い海)よりも深し、報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義を討取り三代将軍の遺蹟を全うすべし。但院中に参らんと慾する者は、只今もうしきるべし。」と記され、武家が後鳥羽院の御意向に背いた事になった原因は、舞女亀菊の申請により摂津国長江・倉橋両庄の地頭職を停止するよう二度の宣旨が下されたところ、義時が承諾せず、これは「幕下将軍(源頼朝)の時に勲功の恩賞を受けて補任したものは、特に過失がないのに更迭することはできません」と申したので、御怒りが激しかったためと記されている。
『承久記』慈光寺本では、政子が館の庭先まで溢れるばかりの御家人を前に涙ながらの大演説を行い御家人たちの心が動かされ、北条義時を中心に東国武士を終結させることに成功した事が記されている。心動かされた有力御家人の一人武田信光が出陣後、隣国の小笠原長清に対し「鎌倉が勝てば鎌倉に着き京方が勝てば京方に付く」野が武士の習わしと公言し、北条時房から恩賞の約束状が届けられると積極的に進軍したという。東国武士の抜かりのない点も記されている。
(写真:ウィキペディアより引用 北条政子、大江広元)
義時の館で北条時房・泰時、覚阿(大江広元)、三浦義村、安達景盛が評議を重ね、意見が分かれたが足柄・箱根の二つの関所を固め官軍を迎え撃つ策に決まった。しかし、覚阿(大江広元)が、「議論の趣旨はひとまず適当です。ただし東国武士が心を一つにしてなければ、関を守って時間が経過するのは、かえって敗北の原因になるでしょう。運を天に任せて速やかに兵を京都に派遣されるべきです」。義時が両方の意見を政子に申したところ、「上洛しなければ、絶対に官軍を破ることはできないでしょう。安保刑部丞実光の武蔵国の軍勢を待って速やかに京に参るべきです」。義時はこの言葉に従い軍勢を上洛させるため遠見・駿河から信濃、甲斐、関東の諸国、陸奥、出羽の国に義時の奉書を送り「京都より坂東を襲撃するとの風聞があったので、相模守(時房)・武蔵守(泰時)が御軍勢を率いて出陣する。式部丞(北条朝時)は北国に向かわせる。この事を速やかに一家の人々に伝えて出陣せよ」と命じた。
同月二十一日に一条大夫頼氏が、十六日に京を出て鎌倉に着き、二品(政子)の御邸宅に到着し京都の情勢を伝えている。再び評議が行われ、住むところを離れ、官軍に敵対して不用意に上洛するのはどのようなものかと異議が出た。覚阿(大江広元)が「上洛と決した後に日が経ったので、とうとうまた異議が出されました。武蔵国の軍勢を待つのも、やはり誤った考えです。日時を重ねていては武蔵国の者らであっても次第に考えを変え、きっと心変わりするでしょう。ただ今夜中に武州一人であっても、鞭を揚げて急行されるならば、東国武士はすべて雲が龍に靡くように従うでしょう。」と提言すると義時は、感心したとされや。ただし、病が重く、床に伏せていた大夫属(たゆうのさかん)入道義信(三善康信)も宿老であるため政子が招いて相談したところ「関東の安否は今、最も重要な局面を迎えました。あれこれ論議しようとするのは愚かな考えで、兵を京都に派遣することを強く望んでいたところ、日数が経過したのはまことに怠慢と言うべきです。大将軍一人は、まず京へ向け出発されるべきでしょう」。義時は「両社の意見が一致したのは神仏の御加護であり、早く出発せよ」と泰時に指示した。三善康信は、この二か月半後の承久三年八月九日に老衰のため死去している。そして、その夜に泰時は藤沢左衛門尉清親の稲瀬川の邸に留まり、翌二十二日、小雨の降る中、僅か従う者、十八騎で京に向かって出陣した。 ―続く