鎌倉散策 「武士の世」二十一、北条義時追討宣旨 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 この承久の乱は、通常の上皇なら起こる事はなかったと言われる。しかし、保元の乱、平治の乱、治承、寿永の乱は、全て上皇の院宣による物が関わっている。ただ違うのは、北条義時の追討戦略の主導者であった事であり、後鳥羽院にとって「神器無き即位」の帝の屈辱感を多彩な才覚で王権を維持しようとした一つの施策であった。武芸にも優るため、武力をもって北条義時追討宣旨を出したのである。後鳥羽院にとっては、計算された万全の策であった。幕府討幕ではなく、北条義時の追討する宣旨であり、幕府を自身の手中に置き治安の安定及び年貢・税の徴税は従来通りに幕府に任せ、朝敵になる事を恐れた御家人たちを幕府内での反北条に先導する計らいであった事が窺われる。

 

 三浦義村の弟・胤義が反北条であり、後鳥羽院から検非違使に取りたてられ上洛し、奥富敬之氏の『相模三浦一族』院から義時追討の件を打ち明けられた時、即座に院側に付いた。『相模三浦一族』での引用は不明であるが、― 挙兵直前の条項の御前で軍議が開かれた時、三浦胤義は重要な日系を検索することをあえて行ったのである。「一天の君の思召し立たせ給わんに、何条、叶わせ給わぬ事の候べき。日本国重代の侍ども、仰せを承らば、いかでか君に叛き参らせ候べき。なかにも舎弟にて候三浦駿河守義村こそ、きわめて鳥呼(おこ)の者に候らえば、“日本国総追補使にも成さん”との宣旨を下され候わば、よも辞し申し候わじ。もし、さも思召し候わば、胤義も内々に,“上皇に御味方すべし”と兄に申し遺わすべし」“兄義村に日本国惣追補氏任命を約束してください。そうすれば、兄は馬鹿ですから、すぐに上皇側になるでしょう。その旨、私の方からも、内々に書状を兄に書き送っておきましょう”―。と記載されている。

 

 三浦義村と弟・胤義は、根本的に思想の隔たりがあった。義村は、元久二年(1205)閏七月におきた牧氏の事件の際、北条政子に頼まれ、結城朝光、長沼宗政と共に北条時政邸にいた三代将軍実朝を奪い返し、義時邸に連れ戻している、和田合戦で、同族の和田義盛に起請文を書きながら、北条義時側に付き、北条との共存を考えていた。北条政子は保元二年(1157)に生まれ、三浦義村は永暦元年(1160)に生まれる。そして、北条義時は長寛元年(1163)の生まれで、頼朝死後は、当時、正妻が家長的な立場を取るため、また、頼朝挙兵時からの重臣として、歳が上の政子を重視していたと思われる。在京中の「平判官」三浦胤義は、妻を「一方執行」の娘で、胤義の妻になる以前は「故左衛門督殿」、二代将軍頼家の側室であり、三男栄実、四男禅暁を産んでいる。しかし、頼家は、信頼していた比企能員と若狭局、子の一幡を比企の乱で北条時政に殺害され、頼家は義時に殺害された。胤義は再婚後に日々涙で暮れる妻を見て都に上がり、院に仕えて鎌倉に一矢を放ち妻の心を慰めたいと思っていた。胤義は、頼家、比企に近く、反北条であった。。胤義は右衛門尉で院に仕え検非違使を兼任するが、兄の三浦義村は和田合戦において駿河守(国司)を与えられたため、義村の方が上位であった。これらの事から三浦義村が弟・胤義の書状に対し、それに同調するとは思えない。むしろ確執があったとも考えられる。また、後鳥羽院は,北条時房をも与するように工作したのではないかとされる。この時期に時房の次男朝村と三男資時が急に出家し、突然の事で人はこれを怪しんだ。と言う記載があり、時房の子の四人中二人が出家したことは、家にとって大事なことで、在京が多かった時房に後鳥羽の工作による何らかの影響が生じたのではないかと推測するのだ。そして、それ以降の記述がない。また、この承久二年の記事が、その後平凡な日常記事として少なくまとめられていることに不快感を持つ。

 

 承久三年(1221)五月十四日、「流鏑馬ぞろい」と称し千七百騎ほどの兵を集め京都守護職の伊賀光季を攻め、光季は、わずかの手勢で応戦したが、討ち死にする。『吾妻鏡』五月十九日には、藤原の公経が遣わした飛脚が鎌倉に着き伊賀光季の誅殺と北条義時追討の宣旨が五畿七道に下された事を知らせた。

 

(写真:京都御所)

 北条義時追討の院宣は坂井孝一氏『承久の乱』真の「武者の世を告げる大乱」から引用させていただくと。「院宣を被(こうむ)るに称(い)へらく、故右大臣薨去(こうきょ)の後、家人等偏(ひとえ)に聖断を仰ぐべきの由、申さしむ。仍(よっ)て義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食(おぼしめ)すところ、三代将軍の遺跡(ゆいせき)、官領する人なしと称し、種々申す旨あるの間、勲功の職を優ぜらるるによって、摂政の子息に迭(か)へられ畢(おわ)んぬ。然而(しかれども)、幼齢未識の間、彼(か)の朝臣、性を野心に稟(う)け、権を朝威に借り。これを政道に論ずるに、挙豈(あ)に然る(しかる)べけんや、重ねて仍(よっ)て自今以後。義時朝臣の奉行を停止(ちょうじ)し、併(いかしながら)、叡襟(えいきん)に決すべし。もし、この御定(ごじょう)に拘(かかわ)らず、猶(なお)叛逆の企てあらば、早くその命を殞(おと)すべし。殊功の輩(ともがら)においては、褒美を加えるべき也。宜しくこの旨を存ぜしむべし、てへれば、院宣かくの如し。これを悉(つく)せ。以て状す。 按察使光親奉る」

 

 内容は次の通りである。「故右大臣」実朝の死後、御家人たちが「聖断」すなわち天使(「治天の君」後鳥羽院)の判断・決定を仰ぎたいと言うので、後鳥羽は「義時朝臣」を「奉行の仁」、すなわち主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ、「三代将軍」の跡を継ぐ者がいないと訴えてきたため、「摂政の子息に継がせた。ところが、幼くて分別が無いのをいいことに「彼の朝臣」義時は野心を抱き、朝廷の威光を笠に着て振舞い、然るべき政治が行われなくなった。そこで、今より以後は「義時朝臣の奉行」を差し止め、すべてを「叡襟」(天使の御心)で決定する。もしこの決定に従わず、なお叛逆を企てたならば命を落とすことになるだろう。格別の功績を挙げたものにとっては褒美を与える。以上である。と訳されている。また、坂井孝一氏は「義時の奉行を止めさせ、後鳥羽の意思で政治を行えば御家人の願いも叶えられる。つまり義時排除という一点で、御家人たちと後鳥羽院の利害が一致すると言う理論である。」また、「賞罰と御家人の恩賞と記述され御家人の心をつかむに十分な院宣と言えよう」と記述されている。

 

(写真:京都御所)

 ここで私見だが、後鳥羽院が鎌倉幕府と執権の北条義時が義時朝臣、「奉行の仁たるべきかの由、思し食(おぼしめ)すところ」として後鳥羽院の手中に納めようとしていた点があり、そこには、大きな東国武士に対する誤解があったと思われる。将軍及び御家人は朝廷から官位を頂いているが、実質は将軍としての鎌倉殿は東国武士たち御家人等が、朝廷に対し武士の半独立的立場を確立した形態であり、「御恩と奉公」所領安堵による忠義(合戦に赴く等)、ここに主従関係が成立しているわけである。したがって、後鳥羽は既成事実的に「義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食(おぼしめ)すところ」、すなわち主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ、では誰が主君なのか。これは後鳥羽を指した見方ではないかと考える。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽天皇像、と北条義時像)

 『慈光寺本』は、この院宣を武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼政宗,足利義氏、北条時房、三浦義村の八人に下したとする。この八人の中には在京経験が多く後鳥羽院との接点がある者、同族内での競合・対立する者、幕府に影響力のある重臣の御家人達で、この中で一人でも後鳥羽院に与する者が出ると幕府に混乱を与える絶大な効果を発揮したと考えられる。そして、後鳥羽院は、この院宣を過信した。この院宣は、関東の有力御家人には届けられることはなかった。 ―続く